大学院数理科学研究科・理学部数学教室の歴史

<発足の経緯と創業の時代>

明治十年(1877)に東京開成学校と東京医学校とを合併して東京大学が創設された。
法・医・文・理の四学部が置かれ、理学部の中に、「数学物理学及び星学科」、「化学科」、「生物学科」、「工学科」、「地質及び採鉱学科」の五学科が設けられた。
菊池大麓 (後に第6代の大学総長)が、数学で最初の日本人教授となる。

明治十四年(1881)に、数学物理学及び星学科が、数学科・物理学科・星学科に分離される。

明治十九年(1886)に、大学院を開設する。「帝国大学紀要 理科」の刊行が始まる。

明治二十年(1887)、 藤沢利喜太郎 が教授となる。始めて研究論文を書き続けた人である。
この後しばらくは、菊池大麓と藤沢利喜太郎が教授である。


<教育・研究体制の整備>

明治二十六年(1893)帝国大学に講座制を実施する。

数学教室では、数学第一講座、数学第二講座、応用数学講座(後に理論物理学講座と改称、物理学教室に)が設置された。

明治三十四年(1901)に数学第三講座設置(高木貞治が担当)

明治三十五年(1902)に数学第四講座設置(吉江琢児が担当)

大正九年(1920)に数学第五講座設置(中川銓吉教授が担当)
この後、45年間の間、数学教室は五講座であった。

<科目制度について>

大正八年(1919)の大学令改定により、いわゆる科目制度が採用される。
理学部の規定として、科目を必修、選択、参考の三種に分ける。


必修科目:微分積分学、代数学、幾何学、一般函数論、微分方程式論、力学、特別講義、数学講究

選択科目:代数学及び整数論、特殊函数論、特殊幾何学、確率論及び統計学、球面天文学、天体力学、一般物理学、及び演習など

参考科目:特に指定なし。


この次期の数学の研究史には見るべきものが多いが、担当者の手に余るので、「東京大学百年史」に譲る。


<昭和初期より大東亜戦争・太平洋戦争終結まで>

大正末期から昭和初期にかけて、理学部一号館が順次建設され、数学教室は震災後の、仮設の仮教室より逐次移転する。当時の教授陣は、吉江、高木、中川、竹内端三、 坂井英太郎の各氏である。

数学科学生の学科課程は、大正年間の後半に確立された形を保っていたが、講義内容は次第に近代化されていった。

高木貞治は初めは代数的整数論の講義を行い、後に必修科目としての微分積分学として解析概論の講義を行った。(例の「厚い重い本」を想起せよ!)

昭和十年代に入って、掛谷宗一がルベーグ積分の講義を始めた。

昭和十二年(1937)、日中事変;昭和十六年(1941)、太平洋戦争へ拡大。
この間、学生の終業年数は三年から二年半に短縮される。

昭和二十年、教室の一部は物理学教室と共に長野県に疎開する。疎開は講座単位で行われる。
掛谷宗一教授、辻正次教授(当時教室主任)は東京に残留。 図書その他教室のメンバーの大部分は、長野県長地村(現岡谷市内)と茅野町(現茅野市内)に疎開した。一年生の講義は小学校を使って行われ、数学の講義のほか、末綱恕一教授がドイツ語の、弥永昌吉教授がフランス語の講義をした

昭和20年9月、教室は疎開先から東京へ戻った。関係者の努力により、教室の図書は全く失われなかった。

戦争中も数学者の研究活動は、物資の不足などにめげずに行われた。当時の研究活動を示すものとして「全国紙上数学談話会」(昭和16年~19年)がある。(旧理学部数学教室の資料を引き継いだ「数理科学研究科・図書室」では、この資料をマイクロフィルムにして保存している)

当時の学生から(戦後に)多くの優れた研究者が出ている。


<備考>:戦前に理学部数学教室の教授の職にあったものは、明治初年の5人の外国人教師を除くと、次の人々である。

菊池大麓藤沢利喜太郎坂井英太郎吉江琢児高木貞治中川銓吉

竹内端三、末綱恕一、辻正次、掛谷宗一、弥永昌吉

また助教授であったものは次の人々である。

三輪 桓一郎(後に学習院教授)、吉田洋一(後に第一高等学校教授)、中野秀五郎(後に北海道大学教授)。
他に小平邦彦が物理学科の助教授であった。

<戦後の復興の時代>

昭和22年、東京帝国大学は東京大学と改称する。

昭和24年(1949)、新制の東京大学が発足、同時に教養学部が創設された。教養学部数学教室も発足。
大学院教育は双方の数学教室が共同で行うこととした。

昭和28年、新制の東京大学大学院が設立される。
数物系研究科の中に数学専門課程ができる。

戦後の数年間、若い才能が花開き数学の研究は大いに進展した。残念ながら、その多くの人々はより良い研究環境を求めて、アメリカへ「頭脳流出」する。
この時期のこれらの人々の活動は、同人誌「数学のあゆみ」を見るべし。


<高度成長の時代>

昭和38年(1963)、応用解析学第一、応用解析学第二、確率論、計画数学の四講座の増設が決定。計算機講座は実現せず。その実現は昭和40年からの学年進行による。

昭和40年、数物系・化学系・生物系研究科を改組し、理学系研究科が発足する。

昭和41年の学部進学生より、学生定員が40名になる。

昭和43年(1968)、同じく50名に増える。


<大学紛争から昭和の終わりまで>

昭和43年(1968)秋より、医学部に始まる、いわゆる東大紛争により、数学科でも半年の余りの間、講義並びに学生のセミナーは行われず。

昭和47年(1972)、学生の純粋数学・応用数学のコース別は、有名無実の実情に応じて廃止する。

昭和51年(1976)に、数学・地質学・鉱物学の三教室が理学部五号館に移転する。

<大学院重点化に伴う改組>

平成4年(1992)に、理学部と教養学部の二つの数学教室と、教養学部基礎科の数理コースが合体して、独立研究科「大学院数理科学研究科」が発足した。

平成16年(2004)4月、国立大学法人化により、東京大学は「国立大学法人東京大学」となる。

現在に至る



出典: 「東京大学百年史、部局史二、理学部」の第二章
文責: 織田孝幸; 最終更新日 2008年8月12日