ミュージックシティー・ナッシュビル

ナッシュビルはアメリカ南部・テネシー州の州都だが,私が初めてこの名前を聞いたのは大昔,中学生の頃である.当時はやった,「22才の別れ」という曲のギターがナッシュビルチューニングという手法で弦を張っているということだったのだが,ナッシュビルがどこのどういう街なのか全然わかっていなかった.何か音楽に関係して有名なところらしいと思ったのは正しかった.それから長い時が流れ,2005年に初めてナッシュビルのバンダービルト大学を訪れた.

バンダービルト大学は数学の全米ランキングだと40〜50位くらいの大学で特に目立っているわけではない.しかし2003年に私の専門の作用素環でフィールズ賞の大物フランス人教授 Connes がここの教授になった.そうは言ってもパリからテネシーに移ったわけではなく,毎年10日ほどバンダービルト大学に行って研究集会を開くというだけでパリのポストがメインであることには変わりなかったのだが,さまざまなところで Connes の肩書に IHES やコレージュドフランスと並んでバンダービルト大学と書いてあるのはけっこうインパクトがあった.Connes がバンダービルト大学に研究集会で訪問した際に話を持ちかけて,素早く理事会承認などを取りつけて一気に実現させたということだ.

その後2011年に Connes の契約は切れたのだったが今度はこの年に,作用素環のもう一人のフィールズ賞教授 Jones がバンダービルト大学に移籍した.長年勤めていたカリフォルニア大学バークレー校はやめて,本当にテネシーに移り住むということだった.最初にこのうわさを聞いた時,私はとても驚いて何かの間違いではないかと思ったことを覚えている.バークレーの別の教授がこの移動について,信じられないような好条件を提示されたのだ,と言っていた.アメリカでは,給料,授業負担,研究経費などは全部個別交渉で決まるので,破格の条件をぶつけて看板になるような超大物を引き抜くというのは時々ある.毎年1年の半分だけテネシーにいればよいということだそうで,あとの半分は母国のニュージーランドなど海外のあちこちを訪問していた.授業はどうしているのだろうと思ったが,専門の作用素環論の講義をしたり,普通の複素関数論の講義をしたりしているということだった.十分に元気だと思っていたのに2020年に急死してしまったのは大変残念なことだった.

Jones 引き抜きの工作をしたのは主任教授の Bisch である.彼は私の UCLA の院生時代の友人で,私と同じ年のドイツ人だ.作用素環論で Jones と何本が共著論文を書いているが,彼はまずカリフォルニア大学サンタバーバラ校からバンダービルト大学に移り,しばらくして主任になったあと,主任として実力を発揮してこの引き抜きを実現させたのである.日本の大学の主任というのはたいてい,順番で回って来る1年交代のもので,大した権限はなく雑用係のように思われているが,アメリカの主任は人事などに絶大な権限があり,その学科をどのような方向にもっていくかに大きな影響力がある.主任として実力を発揮すると,別の大学の学部長に引き抜かれて,そこでも実績をあげるとさらにまた別の大学の学長に出世するといったコースがある.アメリカの大学の管理職はこういった専門職としてのキャリアパスが確立しているのだ.これに比べれば日本の大学の学部長や学長は大学経営について素人同然である.

バンダービルト大学に行ったのは6回である.日産の工場があるそうで,ナッシュビル空港にはかなり日本語の掲示があった.ナッシュビルは最初に書いた通り,音楽,特にカントリーミュージックで有名であり,街の中心部には音楽を聞かせる店がたくさんある.大学は街の中心部からけっこう離れているのだが,私は歩いて行ったこともあるし,バスで行ったこともあるし,Uber を使ったこともある.歩くと1時間くらいかかる.私はカントリーミュージックには特に興味はないのだが,レストランに入るとライブ演奏をやっていたりして,何度か見たことがある.カントリーミュージック殿堂博物館というのも中心部にある.エルヴィス・プレスリーはテネシー州のメンフィスに住んでいてナッシュビルにもゆかりがあるということで,街なかにはプレスリーの大きな人形が飾ってあった.

大学のそばに,アテネのパルテノン神殿の原寸大コピーがある.1897年の万博のために作られたということで何度か行ったことがあるが,なぜこんなものがアメリカにあるのかかなり不思議なものだ.巨大な女神像もあり,オリジナルの忠実なコピーを目指したと言われている.忌野清志郎のアルバムジャケットの写真にこれが使われているのだが,ちょっとアメリカには見えない背景である.私はギリシャに行ったことはないのだが,テネシー州で古代ギリシャ気分が味わえるとはかなり意外なことであった.

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