UC Berkeley でのポスドク生活

私は UCLA で1989年に Ph.D. を取って東大の助手(現在の助教)になった後,1991〜1992年に UC Berkeley の Jones のもとでポスドク研究員をしていた.これはその時の話である.なお私の専門である作用素環論はアメリカのトップ大学には人が少なく,全米ランキングトップ10に入るような大学で専門家がいるのは UCLA と UC Berkeley だけである.

欧米にはよく特別の名前のついた好待遇のポストがある.名前は寄付してくれた人だったり昔の偉い人だったりする.UC Berkeley には全科学分野をカバーするポスドク研究員の Miller Fellow というものがあって格が高いものとされている.数学の場合アメリカだとポスドク研究員と言っても研究だけしていればよいということはなく,たいていは授業をしないといけない.これは若手数学者にとってはかなりの負担である.Miller Fellow は授業をしなくてよいのでこの点からでも特別の待遇と言える.若手のためのポストということで私の頃は30歳以下というのが制限だった.その後,年齢で切るのは差別であるということで,博士取得後何年というような規制になった.その後また変わって,現在は assistant professor 以上になったことのない人という条件である.日本の助教は assistant professor と英訳しているので現在は先に日本で助教になってしまうと資格がないようである.このポストは誰かしかるべき人が推薦しないとそもそも応募資格がないというもので,まず UCLA での指導教員だった竹崎正道先生に推薦してもらった.さらにほかに2通推薦状が必要ということで Connes と荒木不二洋先生に書いてもらった.1990年の10月ごろ応募して,めでたく12月には通ったという通知が来た.当時は Jones のフィールズ賞の直後だったので,彼の発言力が大きかったはずだ.これは2年のポストなのだが,通った直後に東大で講師に昇進させる,その代わりに UC Berkeley 行きは1年にカットしてほしいという話になった.それでO.K.して UC Berkeley にはすみませんが1年でお願いしますということになった.その後 UC Berkeley に滞在中に,私は東大にいないのにまた昇進することになって,1992年に帰ってきたら助教授になっていた.なお Miller Fellow のポストは現在では任期が3年に延びている.日本人数学者だと,私より前にこのポストについていたのは河合隆裕,藤田隆夫,川又雄二郎,斎藤秀司各氏である.コンスタントに日本人は通っていたと思うのだが,私より後は泉正己氏一人だけである.なお3次元 Poincaré 予想の解決で有名になった Perelman も私の2年後にこのポストについており,ここでの給料をためてロシアに帰り,(当時ドルをロシアに持って帰ればとても高い価値があったので)そのお金でしばらく暮らしていたということが論文の acknowledgement に書かれている.

私は22歳で結婚して一人でアメリカ大学院に留学し,妻は日本の会社で働いていた.4年間これを続けたあとに東大に就職したのだが,その直後に子供が生まれており,今度は家族でアメリカに行けるように計画していた.妻は電機メーカーの研究職なので,UC Berkeley の電気工学科においてもらおうと画策した.私の数学の感覚では,お金をくれというのは無理があるが,ただでおいてくれという話なら簡単だと思っていた.しかし妻の会社や大学の関係者はみな,日本の会社の人がアメリカの大学においてもらうには数百万円の研究費を払うのが相場であって,ただでおいてもらう話などありえないと言うのであった.そこで困って Jones に頼んだところ,電気工学科の教授で私の妻を受け入れてもよいという人を見つけてくれたので大変助かった.この教授はこういう数学のコネで見つけたからなのかかなり数学的な人で,工学部で確率論の授業をしているのに Lebesgue 非可測集合の構成などを教えているのだった.

娘はアメリカ到着直後に2歳になった.我々は昼間大学に行っているので保育園に預けることになった.保育園がちゃんと見つかるかどうか心配だったのだが保育園の数はとてもたくさんあり,いくつか回ってみてその中の一つに決めた.我々が見て回った保育園の一つは,わが保育園は教育にたいへん力を入れており,ここの出身者は何人もハーバード大学に進学しています,というようなことを言っていたのでとても驚いた.娘は英語での保育園暮らしに最初はわんわん泣いていたがそのうち慣れて英語をしゃべるようになった.最初に娘が英語で話すのを聞いたフレーズは "This is ***'s." (***は娘の名前)である.娘は2歳の時にアメリカで暮らしていたことは全く覚えていないのだが,英語の発音は良いので,やはりアメリカで保育園に行っていたことがどこかに残っているのであろう.保育園の費用は月400ドルくらいだったと思う.最近 UC Berkeley のポスドクの人に聞いたら今は2,000ドルだと言っていた.めちゃくちゃな値上がりである.当時は私の給料は年間33,000ドルでポスドクの給料としては高い方と言われていた.今でもこのポストの給料は約2倍にしか上がっていない.なお現在はデフレと円安のため日本の大学の給料がだいぶアメリカより安くなっているが,当時は日本の大学の方が高かった.

家は大学の北側の丘の上にある一軒家を月1,350ドルで借りていた.持ち主は UC Berkeley の教授でサバティカルでイギリスに行っていた人だった.眺めが大変良く,サンフランシスコの街やゴールデンゲートブリッジがうちの窓から見おろせた.最初に大学のハウジングオフィスに行って借家の候補のリストをもらって探したのだが,まず地図上に直線を引いて,ここから南は危ないので住んではいけませんと言われたことが印象に残っている.また最初に夫婦と2歳の子供一人だと言ったところ,ハウジングオフィスの人は当然子供は別の部屋で寝るものとして,寝室が二つの家を薦めてくることにも驚いた.家はもちろんアメリカサイズで巨大で,1年後に日本に戻った際には日本のうちがおもちゃのように感じられたものである.

アメリカで家族で暮らすのは車が必須なので Chevrolet のバカでかい車を中古で買った.帰国する日本人駐在員に3,500ドル払ったのだが1年後に人に売った時には1,000ドルにしかならなかった.UCLA の院生時代は私は車は持っていなかったのでアメリカで車を運転したのはこの時が初めてである.免許は日本で持っていたが新たにアメリカで取る必要があり,車を買う,自分で運転して運転免許試験場に行く,その車で試験を受けてアメリカの免許を取る,という順番なのは驚きだった.車は大学の駐車場に停めていた.向こうの人たちは駐車場代が高いと言っていたが,月50ドルくらいで,日本の感覚では全く大したことはなかった.ところで UC Berkeley ではいい場所に駐車場を取るのはたいへん難しいと言われており,そのためノーベル賞教授には特別に便利なところに専用駐車場が用意されていた.数学科ではフィールズ賞教授も同じように扱えと主張してこれが通ったので,Jones も自分専用の駐車場がもらえていた.そこに彼の名前が大きな看板で表示されていたのだが,彼のファーストネーム Vaughan の綴りが間違って書かれていた.名前が違うではないか,と彼に言ったところ,何事も100%うまくいくということは望めないのでこれでいいのだ,と言っていたことを覚えている.

Berkeley は食文化のレベルの高さでも有名な町である.すぐれたレストランがたくさんあり,ガイドブックを買っていろいろな店を回った.一番有名なのは Chez Panisse というレストランで,カリフォルニア料理の元祖として世界にその名が轟いている.Miller Fellow を雇っている Miller 研究所ではこのレストランの2階のカフェを食事会で使っており,何度か行ったことがあるが素晴らしいところであった.ほかにも寿司,中華から始まって世界各地のいろいろな料理が味わえた.シカゴスタイルピザというのも当時のお気に入りであった.

この1年間は研究もはかどり,大変良い1年だった.またいつかああいう生活をしてみたいものである.

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