Jones の思い出

Subfactor 理論の創始,結び目の Jones 多項式の発見でフィールズ賞を受賞した Vaughan Jones は去年(2020年)9月6日に急病で亡くなった.(新型コロナウイルスのためではない.) 67歳だった.彼には長年にわたり大変お世話になったところである.

私が Jones の名前を初めて認識したのは1984年の Jones 多項式のプレプリントによってである.夏頃,服部晶夫先生が,Alexander 多項式とは異なる結び目の新しい多項式不変量が発見されたそうだ,と言ってプレプリントをみんなに見せてくれたのだ.私は当時学部4年生で作用素環を専攻することに決めたばかりだった.このプレプリントの結び目の絵が手描きだったのを覚えている.この時取ったコピーは今も持っており,July 1984 となっているので,私が見たのもこの頃だったはずである.なお結び目の絵は出版されたバージョンでも手描きである.

その後私は大学院でアメリカに留学したいということになって,いろいろな人に相談した.1984年10月に日本数学会の秋季総合分科会が東大で開かれ,荒木不二洋先生にも会って相談した.この時点ではまた Jones 多項式の評価は定まっていなかったと思うが,荒木先生から Jones (当時31歳)は若手のスターで大きな注目を集めているという話を聞いた.そこで Jones にも留学したいという手紙を書いてみた.当時は e-mail はまだ普及していなかったのでエアメールである.私の当時の興味は Jones の理論とかなりずれていたので,今思うと相当的外れなことを書いたのだが,ていねいな手書きの返事をくれた.自分は来年は UC Berkeley か Stony Brook に移るので自分につきたければこれらに出願せよと書いてあった.(実際には彼は UC Berkeley に移った.) 私はこの時の返事を今も持っている.

UC Berkeley と Stony Brook にも願書を出して合格したが,当時は違うテーマに興味があったので,結局私は1985年に UCLA の大学院に留学することになった.東大数学科の卒業式の際に岩堀長慶先生にその話をしたところ,お前は作用素環でアメリカに行くのか,それならほら小錦がいるだろ,と言われたのだが何のことか全くわからなかった.小錦とは当時巨体で有名だったアメリカ人力士のことだが,1986年春に UC Berkeley の集会で Jones に初めて会って,これは Jones のことだったのだということがすぐにわかった.(彼は相当な巨体である.) 岩堀先生は岩堀 Hecke 代数の関係で Jones に東大で会ったことがあったのだった.

その後私は UCLA 留学中に何度も Jones に会ったが,1989年に Ph.D. を取って日本に帰って来て東大の助手(現在の助教)になった.1990年は京都での ICM (国際数学者会議)の年だったが,前の年から Jones がフィールズ賞を取る,という噂がたくさん流れてきて,直前にはもう確実という情勢だった.日本数学会はその雑誌『数学』に Jones のフィールズ賞受賞者業績紹介を書くように,と言う依頼を私に送って来て,フィールズ賞受賞者は未発表なのにこんなことを公式に頼んできていいものなのだろうかと思ったことを覚えている.Jones は ICM の前に東大にもやって来て数学科の談話会で講演した.こんなに教室がいっぱいになったのは見たことがないというほど人が来て,席に座りきれないほどだった.その講演で○○結び目と言う名前のついた結び目をすらすらと黒板に描いていたが,談話会の直前に私が部屋に会いに行ったときはその図を描くのを何度も練習していたのだった.

京都の ICM ではフィールズ賞授賞式の数日後,彼の全体講演があったが,その服装は母国ニュージーランドのオールブラックスのジャージだった.彼が亡くなった後,アメリカ数学会の追悼記事のために,この時の写真がどこかにないか,と言う話になったのだが,いろいろな人に問い合わせて,カメラマンの河野裕昭氏撮影の写真を入手することができた.これは Notices of American Mathematical Society に出版予定された.

その後私は1991年から1992年にかけて UC Berkeley に Jones のところのポスドクとして滞在した.さらにそのずっと後に2000年から2001年にかけても MSRI の作用素環プログラムで1年滞在した.Jones とは日本を含む世界中で数え切れないくらい会ったが,中でも印象に残っているのはハワイのマウイ島の集会である.コンドミニアムを何部屋か借り切って合宿のような形式でコンファレンスをやるのだ.私が行ったのは2回だが,元学生たちはマウイ島に何度も集会で行っていた.Jones の60歳記念コンファレンスもここで行われたものに参加した.さらになぜか60歳記念コンファレンスはもう1回あり,中国北京郊外の秦皇島でも行われ,私はこちらにも参加した.彼には中国人の弟子がたくさんいたからだが,これもよい集会だった.

Jones はさまざまなオーガナイズ,事務的な仕事にも関与しており,アメリカ数学会副会長と国際数学連合(IMU)副総裁もやっていた.研究集会,プログラムは彼がオーガナイザーに名を連ねていたためにお金が取れたものがたくさんあるはずだ.2003年にリスボンで開かれた数理物理の巨大集会 International Congress on Mathematical Physics (ICMP)では作用素環セクションはなくなりそうだったのを彼の影響力で復活させた.ところがこのセクションのオーガナイザーがサボっていたために,直前になっても招待講演者が全く決まっていなかった.そこで彼の尽力で土壇場で講演者をそろえたのだった.また母国ニュージーランドでは数学の研究所を設立し,毎年かなりの期間をニュージーランドで過ごすなど,ニュージーランド数学の発展にも力を尽くした.

Jones がしていた話で一つ覚えているのはフィールズ賞は十分もうかるという話である.フィールズ賞の賞金は約200万円しかなく,ノーベル賞やアーベル賞の賞金が約1億円であるのに比べるとはるかに少ない.しかし理科系のノーベル賞はたいてい二三人で1億円を分け合うし,若い受賞者がいないわけではないが最近はかなり年配の人がもらうケースが多いので受賞後のキャリアというのはあまり長くないことが多い.一方フィールズ賞受賞者は必ず40歳以下だし,アメリカの場合は給料が一生に渡って跳ね上がるので,むしろノーベル賞よりもうかるのだ,ということであった.Jones は気さくな人で普通の人(特に偉い人)は話さないようなことも話すということがよく現れた話である.

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