IHES での滞在

私は UCLA の院生の時,1988年から1989年にかけてパリ郊外の IHES (Institut des Hautes Études Scientifiques, 高等科学研究所) に滞在していた.この年が私の UCLA での院生としての最後の年だった.私の指導教員であった竹崎正道先生はこの年にサバティカルでパリに行くことになっており,私もついて行ったのだ.お金はアメリカの民間財団である Sloan 財団から奨学金をもらった.これは数学では格の高いとされている奨学金で全米の数学科から推薦を出して決まる.日本人の大学院生がフランスに1年行くのにもお金をくれたアメリカの Sloan 財団には深く感謝している.

IHES は7つのフィールズ賞に輝く世界最高峰の数学と理論物理学の研究所である.もちろん作用素環では著名な Connes がいるので我々は彼のところに行ったのだ.彼のフィールズ賞からはまだ6年しかたっていなかった.当時のIHES には Connes のほか Gromov, Thom などがいた.Deligne はアメリカに移った後だった.毎日お茶の時間があり立派なケーキが出るのだが Gromov がそこでケーキを食べていたことがなぜか記憶に残っている.私は2階の隅の3人部屋をオフィスに使っていた.十数年後に IHES を訪問した時はその部屋は物置になっていた.私の UCLA 博士論文の主要部分はこの部屋で書いた.当時はまだあまりコンピュータは進んでおらず,メンバーのオフィスにはパソコンはなかった.1階に UNIX 端末の部屋があり,メールを読んだり論文をタイプしたりはこの部屋でやっていた.日本とフランスはどちらも世界標準の紙のサイズ A4 という規格を使っているが,アメリカだけは USレターサイズという変なサイズ(A4 より少し縦が短く横幅が大きい)を使っており,私の博士論文はこのサイズの紙に印刷しなくてはいけないと言われていた.そのため私はアメリカから US レターサイズの紙を持参し,この部屋のプリンタでその紙に印刷してアメリカに郵送したのだった.(当時のコンピュータやネットワークはかなり原始的なもので,フランスからファイルをメールで送ってアメリカで印刷してもらうことはかなり困難だった.) IHES でメールアカウントをくれると言われてアカウント名(@の前の部分)の希望を聞かれた.当時長さが8文字までという規則がよくあったので,そうなのかと聞いたところ,そんなことはない,もっと長くてもよいと言われたので,ykawahigashi を希望した.しかし次の日になったら,やっぱり8文字までだったので,ykawahig にしておいた,と言われてしまった.こんな変なところで切られるなら yasuyuki にしておいたのに,と思ったが手遅れだった.

IHES はパリ中心部からから南に電車(RER B)で1時間近く行ったビュールシュルイヴェットという町にある.私は研究所付属のオルマーユという宿舎に住んでいた.家族で来ている人などは一軒借りられるのだが,私は単身だったので数人で一軒をシェアしていた.各人用に寝る部屋があり,風呂やキッチン,食堂が共同だったのだ.私と同じアパートの2階をシェアしていたのが当時博士を取った直後だった Taylor である.イギリス人なのにアメリカに留学してプリンストン大学で博士を取ったのはイギリス人の有名な先生がいたからだ,という話を当時していたのだが,あとで思えばその先生とは Wiles のことであった.その後,Wiles は Taylor の助けを得て Fermat の最終定理を解決し,Taylor 自身も数論の超大物になった.この年には数論の兵頭治さんが オルセー(パリ南大学)に来ていて同じオルマーユに住んでいてよく会った.兵頭さんはこの直後にドイツの Max-Planck 研究所に移動したのだが大変残念なことにそちらで亡くなってしまった. 私はこのことは Taylor から聞いて大変なショックだった.

フランス人はフランス語に誇りを持っていて英語はできても話さないとよく言われる.IHES に行く前に日本人数学者から,IHES には英語のできる秘書は一人しかいないとおどされていたこともあり,IHES に着いた直後は一生懸命怪しいフランス語で話してみたのだが,すぐに秘書は英語に切り替えてきた.英語のできる一人だけの秘書というのはこの人なのかと思ったが,その後秘書は全員英語ができることが分かった.(私は大学の第2外国語がフランス語だったので数学論文は問題なくフランス語で読めるし,数学の講演ならフランス語で聞いてもかなりわかるが,フランス語の一般会話はかなり怪しい.) Connes のセミナーは本来フランス語なのだが,竹崎先生がいるというのでこの年は英語で行われていた.たまたまやって来たイギリス人が,Connes のセミナーが英語だといって驚いていたのを覚えている.ある日竹崎先生が用事があって30分くらい遅れてきたことがあった.その日のセミナーはフランス語で始まって,竹崎先生が到着したところで Connes が "anglais" と言って英語に切り替わったのだった.

Connes は当時 IHES の教授とコレージュドフランスの教授を兼任していた.コレージュドフランスはフランス独特の機関であり,ノーベル賞級の人を集めて自由に研究させている.年間の仕事は公開講義を一学期十数コマやることだけである.ただしその内容は自分の研究成果でなくてはならない.コレージュドフランスの建物はパリ中心部のカルチェラタンのソルボンヌ大学のそばにあって,我々は Connes の公開講義に毎週通っていた.もちろんこれはフランス語だった.第1回の講義の時,Connes が予想として挙げたものについて,そんな形では明らかに成り立たない,コンパクト性を仮定しなくてはいけない,と言っている人がいて,誰だろうと思ったら,あとで(史上最年少フィールズ賞受賞者の) Serre であることが分かった.

IHES は小さな食堂がついており,そこでみんなで昼食をとるのが日常だった.かなり立派なものが一品ずつちゃんと運ばれてくるのだ.昼から普通にワインを飲んでいたのを思い出す.当時所長であった Berger は,研究所にとって食堂は大変重要であり,そこに優れたシェフを連れてくるのが自分の大事な任務だと言っていた.アメリカではよく知らない人でも顔を合わせたら挨拶するのが普通だったので,Thom にも軽い調子で手を挙げて "Hi" とあいさつしたら重々しい調子で "Bon jour" と返されたことがあった.

IHES の設備について言うと,その図書館は世界最高峰の研究所にしては驚くほど貧弱であった.論文等を見たいときは近くのオルセー(パリ南大学)の図書館に行けばよいと言われてそちらに行ったことが何回かある.この図書館について Grothendieck が,我々の仕事は本を読むことではなく本を書くことであるからこれでいいのだと言ったという話を聞いた.今はこのほかに Simons 財団の寄付でできた講堂があり,2006年にコンファレンスがあった時はこの講堂を使っていた.

この直前の頃は日本人はフランスにはビザなしで3か月まで滞在できることになっていた.しかしテロ事件が発生してその対策として全員観光ビザを取らなくてはいけないということになった.観光ビザの有効期限は3か月であり,これを超える長さのビザを取るのはかなり難しかった.これについて IHES では長期のビザを取るのは面倒である,1回でも出国すれば3か月の期限はリセットされるので,3か月ごとに近所の国に出国すればよい,ということを推奨(?)していた.私はまず冬休みに日本に帰国したのでこれでいったんリセットされたが,その後は滞在期間が3か月を超えてしまい,不法滞在状態になってしまっていた.しかし出国の際には何のチェックもなく,私の不法滞在は誰にも知られることはなかった.

このころフランスのお札はまだユーロに代わる前で,1,000フラン札の肖像は Pascal だった.数学者なのでしばらく使わずに記念に持っていたのだが,1,000フランは2万円くらいでありついもったいなくなって使ってしまって手元に残っていない.スイスの Euler のお札やドイツの Gauss のお札はいずれも1,000円くらいだったので今も使わないで持っているが,Pascal もちゃんと残しておけばよかったと思う.なおイギリスの Newton やノルウェーの Abel もお札になっていたようだが手に取ったことはない.今年(2021年)からはイギリスで Turing がお札になるとのことだ.

私はヨーロッパの人との共同研究も多く,100回以上ヨーロッパに出張しているのだが,本当にヨーロッパに住んでいたのはこの時だけである.コロナウイルスが収束すればヨーロッパに出張することはまだ何度もあるだろうが,もうヨーロッパに住むことはないだろうと思うと少し寂しい気がする.

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