カルチェラタン

カルチェラタンはパリ中心部,セーヌ川南側の文教地区であり数学に関係した大学,研究所などが驚異的な密度で集中しているエリアだ.私が初めて行ったのは1988年で,IHES 滞在時の Connes のコレージュドフランスでの講義とセミナーである.IHES はパリ中心部からはかなり外れた郊外にあり,私のフランス滞在はそちらに偏っているのでパリにはそれほど詳しくないのだが,このあたりは文化の香り高い素晴らしい一帯である.サンジェルマンデプレ,リュクサンブール公園,パンテオン,ノートルダム大聖堂なども比較的近くにある.

2011年には作用素環のプログラムで2週間ずつ2回,このエリアの Henri Poincaré 研究所に滞在した.その住所はノーベル賞の Curie 夫妻を記念した Pierre et Marie Curie 通りである.同研究所はアメリカの MSRI などと同じく,何らかの研究プログラムを常時数か月ずつ実施していて世界中からビジターが来るという形式である.私がここに初めて行ったのは IHES 滞在中の1988年で Bourbaki セミナーのためであった.これはたいへん有名なもので,最近の重要な成果について本人以外の人が解説的な講演を行うものだ.年に4回,土曜日にここで4つずつの講演が行われる.その内容は Astérisque から本として出版されており,最近のものは YouTube でも公開されている.講演する方も大物が登場することがよくあり格が高い.最近の成果について「Bourbaki セミナーで取り上げられている」というと何かすごそうな気がする.私が行ったときは Villani が研究所の所長で階段ですれ違ったりした.彼はこの時点ですでに Fields 賞を受賞していたが,その後最近は政治家に転身している.なお Villani と言えばいつもカラフルな蜘蛛のブローチをしていることで有名である.ローマのコンファレンスで会った時は毎日違うブローチをしていたが,1週間分持って来ているのだと言っていた.

フランスの多くの有名数学者を輩出している名門校 ENS もこの近くにある.フランス独特のシステムであるグランゼコールの一つである.Ulm 通りにあるので,この ENS のことを単に Ulm と言ったりする.Galois はもう一つのグランゼコール名門校 École Polytechnique の入学試験に落ちて ENS (の前身)の方に入学したということだが,最近は ENS の方がすごいということになっているようだ.フランスのエリートの学歴主義は日本以上で,50才を過ぎたような数学者でも ENS の入学試験であいつは何番だったというような話をしている.前に ENS の学生を交換留学生として半年受け入れたことがあるが,その推薦状には「わが校は(その時点での)フランス人フィールズ賞受賞者7人すべてを輩出した偉大な教育機関である」と書いてあり,推薦状の半分はいかに ENS がすごいかということに費やされていたのだった.(Grothendieck はフィールズ賞受賞時に無国籍だったのでこのカウントに入っていない.)

フランスのエリートと言えばさらに,多くの超エリートを輩出してきたルイ・ル・グラン高校もすぐそばにある.数学では古くは Galois, Hadamard, Hermite, Painlevé, Lebesgue, Poincaré などがここの出身であり,現代でもフィールズ賞4人(Lafforgue, Lions, Schwartz, Yoccoz)を出しているというとてつもない高校である.フランスではこのような強力な学歴エリート主義があるのに,隣国ドイツはまったくそうではないのは対照的である.ドイツの数学の方が優れていた時代もたくさんあるが,現在はフランスの方がずっとすごいのも不思議なことである.

全学術分野で最高峰の学者を集めたフランス独自の組織,コレージュドフランスもこの一角にある.ここの教授は年10回程度の講義を行うことだけが義務であり,それは公開されていて誰でも参加できる.登録なども何もなくただ教室に行くだけである.現在は数学の教授は Gowers, Lions, Ngô だ.Connes はここの教授と IHES の教授を兼任していたが少し前に引退している.フランスには Fields 賞受賞者はたくさんいるので,単に Fields 賞を取ったくらいではここの教授にはなれない.Weil の自伝に,コレージュドフランスの教授になる話が出たが通らなくてなれなかったということが書いてある.

私は行ったことがないが,フランス科学アカデミーもこのあたりにあって,数学のアカデミー正会員はリストを見ると28人のようだ.広い意味での作用素環関係者は Connes, Guionnet, Pisier の3人である.Anantharaman は本人は作用素環関係ではないが,作用素環の女性数学者 Anantharaman-Delaroche の娘である.Anantharaman は一時期は女性 Fields 賞候補の一人と言われていた.このアカデミーは短い論文を載せる速報誌 Comptes Rendus - Mathématique を出していることでも知られている.

近くのパンテオンにはフランスを代表する偉人たちが祭られており,数学では Lagrange, Monge, Painlevé などが含まれているとのことだ.また別の近くのサン・ジェルマン・デプレにはサン・ジェルマン・デプレ教会があり,ここにはデカルトの墓がある.数学とは関係ないが,サルトルやボーヴォワールが使っていたことで有名な文学カフェ,ドゥ・マゴもこちらにある.またノートルダム大聖堂があるシテ島ともう一つのサンルイ島はセーヌ川にある島だが,これもこの近くである.

カルチェラタンのあたりには日本マンガ,アニメの専門店がある.これらはフランスで人気があるようだ.そう言えば30年以上前に IHES に滞在していた頃,毎日夕方に日本アニメを放送していたのだった.「めぞん一刻」,「エースをねらえ!」,「キャッツ・アイ」,「うる星やつら」,「アルプスの少女ハイジ」などである.上で書いた ENS からの交換留学生は東京に来て,東京の街並みは「めぞん一刻」のアニメで見た通りだと感動していた.その「めぞん一刻」のフランス語題名は "Juliette, je t'aime" である.登場人物の名前はフランス語に変えられており,Juliette というのは響子さんのことなのだ.あれをあの頃子供の時に見ていた人たちも今ではすっかりいい大人になっていることだろう.

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