数学とダイバーシティ

近年日本社会におけるダイバーシティ(多様性)がいろいろなところで問題になっている.日本の学術界におけるダイバーシティでしばしば問題になるのは,外国人と女性の割合である.東大数理では現在,専任の任期なし教員(教授,准教授,助教)61人中,外国人は2人,女性は5人である.昔はどちらもゼロだったので改善されていることは間違いないが,その歩みは残念ながら大変遅いのが現状である.なお東大数理の大学院生については最近の割合は外国人10%,女性5%程度であり,私のところのこれまでの大学院生の通算ではおよそ,外国人18%,女性10%である.アメリカでは私が大学院生だった三十数年前からずっとダイバーシティが大きな問題になっている.アメリカの場合世界中から人が集まっているので外国人の割合はもともととても高くて話題にならないが,その代わり人種(特にアメリカ人の場合)の多様性が問題になっている.

このうち外国人についてはまだまだ少ないとはいえ,日本の数学界全体で見ても増加傾向ははっきりしている.そもそも昔はひどい話だが外国国籍者は国立大学教員になれなかったのであり,留学生や長期滞在の外国人研究者(ポスドクや客員教授)の枠もほとんどなかった.私が東大数学科学部学生の頃,ヨーロッパからポスドクで1年来ている人がいたが,とても珍しく感じたものだった.日本の数学界の国際化のためにはもっと外国出身者に増えてほしいところだが,日本語の壁が大きく,劇的に増やすのはなかなか難しい.Kavli IPMU のような研究所なら公用語を英語にすることができるが,授業や試験のある普通の学部,研究科では英語で仕事を完結させるのはかなり困難である.また仮にがんばって全部英語化することができたとしても,多くの場合研究者には家族がいるのであって,家族が日本人でない限り,日本で永住したいと思うかどうかはかなり疑問である.しかしそれでも日本語で教えている外国人教員の数は着実に増えてきていることは間違いなく,たいへんよいことだと思う.私は昔,親(の片方)が日本人だとか子供の頃日本に住んでいたとかいうのでない限り,外国人が日本語で授業できるようになるのは極めて困難なのではないかと思っていたが,そんなことはないことがわかったのはよいことだった.

留学生については日本の大学の奨学金が貧弱なので国費留学生以外の人に来てもらうのはなかなか簡単ではないが,それでも徐々に大学院の留学生は増えている.私のところの留学生の出身国はこれまで,デンマーク,モンゴル,中国,タイ,ブラジル,モロッコである.修士,博士を取った後は母国に戻っている人が多いがそうでない場合もある.ポスドク研究員については,私がこれまでに受け入れたポスドクは17人,うち外国人は8人である.学振など日本側のお金で来たこともあるし,向こうの国で取ったお金で日本に来た人もいる.博士を取った後にいろいろな国でポスドクをするのは世界的に普通のことで,日本に来てみたいという人はそれなりにいると思う.日本に関係ないままかなりの年になってしまった大物に,日本にたとえば1年間来てもらうのはかなり難しいと思うが,ポスドクなら良い人材を取れる可能性はけっこうあるはずだ.東大数理としてそういう独自の予算がもっと欲しいところである.

数学研究において外国人など多様な背景の人が増えた方がよいのは,その方が研究の多様性が増すからである.数学は最も客観的な学問の一つだと思うが,それでも研究内容,方法に文化的な背景というものはある.冷戦時代にロシア独自の数学というのはあったし,今もかなりの程度あると思う.私の専門での狭い経験でも,ルーマニアデンマークの数学文化といったものはあるし,日本の作用素環に独特の趣味,傾向と言ったものも一応あると思う.さまざまな国籍,経歴を持った人の交流が数学の発展に寄与することは多いであろう.また教育や事務的な問題についてもいろいろ異なる背景,経験を持った人が集まることは現状の改善に役立つと思う.

もう一つダイバーシティで大きな問題なのは女性についてである.東大数学科の学生数はは長い間だいたい1学年45名だが,女子学生の数はほぼ0〜2名で変動しており,3人いると特に多いという状況である.私の知っている範囲での最高記録は1学年に4人で,これは大昔,私の1学年上の学生の記録だ.私の直接知っている約40年の間で全然増えていないのは大変残念なことである.同じ40年の間に東大理科一類の女子学生の割合は約3%から3倍程度には増えている.10年ほど前に東大理学部の学科ごとの学部女子学生比率を見たことがあるが,数学科の割合は理学部内で最低だった.私は別に「女性ならではの数学」があるとは思っていないが,日本の場合人口の半分の能力を数理方面にわずかにしか生かせていないのは国家的損失である.これから人口も減っていく中,潜在的な才能のプールを眠らせたままにしておくわけにはいかないと思う.また大学の仕組みの改善などのためにはいろいろな意味での少数派の人はもっといた方がよい.日本全体では数学の博士課程大学院生の女性比率は10%程度で,これも増加しているとは言い難い.アメリカの場合は最近はずっと30%くらいである.なお私の家族は,母,妻,娘2人が全員理系であり,私は女性が理数系に向いていないとは全く思っていない.

もう一つダイバーシティと言って私が気になるのは数学科以外の出身者である.物理学科や情報学科出身で数学科に学生,教員として所属している人はそれなりにいる.特に私の専門の作用素環論は昔から物理学との交流が盛んなので,学部の出身が物理の人,博士まで物理の人,現在の所属も物理である人は私の周りにも何人もいる.超弦理論が最も目立つ例だが,物理出身の人で数学に独自の視点を持っている人は少なくないので,もっと様々な背景の人が数学の世界で活躍することはとてもいいことだと思う.私のこれまでの院生では,物理,情報,計数などの出身の人がいたし,水産学部という人もいた.昔,今よりずっと大学院入試が難しかった頃の東大数学科の先輩には,東大印度哲学科出身で数学科の大学院に来て数学者になったという人もいた.

日本の数学のダイバーシティについて最後に触れたいことは,東京などの大都会の有名高校出身者の割合である.国際的に活躍している日本人数学者の中でそういった人の割合はとても高い.東大や京大の入学者にそういう高校の出身者が最初から多いということを考えてもなお,それ以上に多い.私自身もそういう高校の出身であり,それ自体が悪いわけではないのだが人材供給源が一部に偏っているのはよいことではないと思う.数学に才能,適性を持った高校生がここまで一部の高校に偏っているということはありそうもないし,そもそも日本の人口で言えば,自宅から通える範囲にそのような有名高校はない人の方がずっと多いはずである.経済的な問題も大きいのでこのことの解決は容易ではないが,広い範囲に人材を求めていく努力は常に必要であると思う.

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