昔の東大数学科大学院

私もすっかり年寄り世代になったので,大学院重点化(東大数理では1992年)より前の大学院の仕組みについて書いてみたい.できるだけ客観的データに基づいて書きたいと思う.私が東大数学科を出て大学院修士課程に入学したのは1985年である.(この年の夏に私はアメリカに留学したので,東大大学院には事実上3か月しか通っていない.) その前後数年の数字の平均を見てみると次のようになる.

当時は院試(大学院入試)に落ちた人が留年してまた受けるということが全く普通であり,そういう留年者がたくさんいたため,東大数学科4年生の在学者数は毎年100人を大きく超えていた.修士課程合格者のうち留年していないストレートの人は半分くらいだったはずだ.院試の受験者の数字は見つけられなかったのだが150人前後だったと思う.つまり院試の段階で受験者の大半は東大数学科の学生だった.見ての通り修士課程進学者の約8割が大学のポスト(当時はすべて最初から任期なし)についていた.中には自らの意思で方向転換する人もいることを思えばとても高い数字である.最初から,将来空くであろう数学者のポストの数の見込みプラスアルファしか大学院に入学させないという方針だったのだ.このため院生は入学時から,将来数学研究者になる人として扱われていた.つまり数学者になろうとした場合,最大の難関は修士課程に合格することだった.なお最近の平均の数字を書いておくと,数学科卒業者は44人,修士課程入学者は43人と言ったところである.(これを見て希望者は全員入れると思う人もいるかもしれないがそうではない.他の大学,学科から大学院に来る人がたくさんいるからである.)

学生側から見たときこの仕組みのよい点はもちろん,数学者になれそうだという見込みが早い段階ではっきりたつということである.また副次的なこととしては,なれそうにない場合は早めに方向転換できるということもある.当時も大学院入試は9月にあったが,落ちた場合そこから企業に就職活動しても十分時期的に間に合った.理系でも修士進学は今ほど一般的でなかったので学部卒で企業等に就職することは全く普通のことだった.(なおこのため,東大数学科の院試の面接では「落ちたらどうしますか」という質問が全員に聞かれていた.これは落ちたら就職活動する気がありますか,今からでも間に合いますよ,という意味であり,その気のない人は「留年します」と答えればそれで問題なかった.私もそう答えたのだが,某先輩は「ぼくは絶対落ちません」と言い返したというので当時話題だった.) 一方学生側から見てよくない点は何といっても多くの人にとって難しすぎたということである.上に書いたように院試に落ちて留年する人はたくさんいたし,2年留年することも珍しくなかった.それ以前に大学に入るところでの浪人,教養学部から数学科に進学するところでの留年も今よりずっと多かった.滑り止めで他大学大学院を受けることもよく行われており,京大は滑り止めにならないというので,東工大,都立大などが人気があったのだが,これらの大学院の定員はかなり少なかったので,いずれも大激戦だった.今ではかなり立派に活躍している数学者でも,第一希望に落ちて留年した,または第二希望に行ったという人はよく見かけられる.院試の問題も今よりずっと難しく,一人しか解けないような問題はごく普通だった.

大学側から見た場合,古い仕組みのよい点は研究者になる意志と能力のある人だけを集めて高い水準で指導できるということである.よくない点は試験の難しさだけで切ってしまうため,本当は研究能力があったのに門前払いされて数学者になれなかった人たちがいたはずだということである.この裏返しとして,試験だけは得意なために大学院に進んで研究職に就いたのに,実際にはほとんど研究していないという人も昔はかなりいた.東大でも理学部数学科(本郷)は研究が盛んだったと思うが,教養学部数学教室(駒場)にはほとんど研究していない先生たちが何人もいた.今はこの二つの組織は合体して数理科学研究科(駒場)になっている.

修士修了の後は,一番優秀でかつ,空きポストがちゃんとあればすぐに助手(現在の助教)になることができた.これは任期なし,終身雇用のポストである.東大では毎年2〜3人助手を採用しており,他大学の助手になる人もかなりいた.毎年2〜3人ずつ博士課程を中退してどこかで助手になっていき,博士を3年フルに行くとあまり優秀ではない,あるいは運が悪かったと見なされていたと思う.(私はアメリカの大学院に行っていたので当時のキャリアとしてはかなりの変則パターンである.) 博士を取った後で職がないという人はいたが,多くなかったように思う.助手採用に必要なものはもちろん研究業績であるが,教員たちが見て優れた論文と判定されればそれで十分であり,論文が出版されているとかアクセプトされているとかは問題ではなかった.日本語手書き未投稿の修士論文でも内容が優れていればそれでよかったのである.当時の東大数学科ではこのように助手を採用していたが,4〜6年前後で論文博士を取ったうえで次々と各大学の助教授(現在の准教授)になって出て行っており,何も論文を書かずに助手ポストを占め続けるだけの人というのはいなかった.このような採用方法で失敗がなかったのは立派なことだ.助手の仕事は演習の担当だけでありほぼ研究に専念することができた.給料をもらったまま,海外の大学に2年程度滞在することもでき,大変優れた研究環境であった.1990年ごろ私と同時期に東大数学科の助手をしていた人たちはその後半分くらいが ICM(国際数学者会議)招待講演者になっており,レベルはとても高かったと思う.

私が助手から講師になった1991年に大学院重点化の話が持ち上がり,ごく短期間のうちに急展開して1992年に大学院数理科学研究科が成立した.全体としては昔より良くなった点の方が多いと思うのだが,若手のポストという点では優れた研究環境が大きく変化したのは残念なことだ.東大数理の助教は今も最初から任期なしなのだがポストの数が大幅に減ってしまっている.数学者になりたいと思う人のうちどのくらいが最終的になれるか,という割合で見れば昔と今であまり違いはないはずなのだが,そのことが決まる時期が昔よりずっと後にずれたことが大きな違いである.

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