数理科学研究科ができた頃

東京大学大学院数理科学研究科は1992年4月1日に成立した.この時からずっと居続けている人も現在ではかなり少なくなった.以下は私の覚えていること,理解していることにしたがって書くが,私は準備段階の時は下っ端(理学部の専任講師)だったので私の認識が歪んでいる可能性はあることに注意しておく.

数理科学研究科ができる前は本郷に理学部数学科があり,駒場に教養学部数学教室と基礎科学科があって別組織だった.教員の数は本郷が教授9人,助教授(現在の准教授)9人,助手(現在の助教)18人で,駒場は合計で30人(助手は数人で大半が教授と助教授)だったはずだ.理学部数学科の4年生はセミナーで本郷の先生についた.大学院では駒場の先生につくことも可能だったが院生の約9割が東大数学科出身だったので,そのまま本郷の同じ先生につくのが普通だった.この改組の案が急に降ってわいたのは1991年4月か5月の頃である.これは文部省(現文科省)から突然やって来た話だと理解している.私は自分の普段の仕事にはほとんど文科省の影響はないと思っているのだが,これに関しては東大側から進んだ話ではなく文部省の影響が圧倒的に大きかった.

まず当時の話の前提として,(今と同じだが)国立大学にお金がない,理系では大学院が中心なのに学部が組織の中心になっているのはおかしい,という不満があった.そこで学部と大学院を一体化した新組織などが提案されていたのだが,それらの実現には法律,組織上のハードルが大きかった.これに対し,当時の仕組みでは教員は学部に属し,ついでに大学院でも教えていたのだが,これを逆転させて教員が大学院に所属して,ついでに学部で教えることにすれば,予算も含めて状況が改善されるという案が唱えられた.これが大学院重点化だが,理系の改革案とは全く無縁であったはずの東大法学部が1991年にこれを真っ先に実現させた.この流れが数学にも突然やって来て,本郷と駒場の数学部門だけを切り離して合体させた新しい大学院組織ができそうだ,ということになったのである.

今でも,物理,化学,生物などの理学系学科では本郷と駒場が別組織に分かれているのだが,この形にはいろいろとデメリットがある.学科の教員たちが同じ場所にいないということ自体が研究上不便である.また昔も今も,予算や授業負担の面から駒場側の研究,労働環境が相対的に悪く,その分東大としてせっかく持っている駒場側のポストの魅力が低いということも問題である.そこで数学だけが新しい大学院組織を作るというのは我々にとって大きなメリットがある案だった.トータルの教員ポストは増えないということだったが,最終的に教授30人,助教授(現在の准教授)30人,助手(現在の助教)6人という組織ができた.教授,助教授のポストは大幅増,助手ポストが大幅減ということだが,研究組織としては大きなプラスであったと思う.(本郷ではたとえば代数の教授のポストは2つしかなく,その2つが埋まってしまうともうどんなにすごい人が来ても教授にはなれないという状況だった.) その後30年近くがたってポストは少しカットされたが,数%の減少にとどまっている.初期に見た案では教授42人というものもあったのだがそこまでは実現しなかった.アメリカの大学では通常教授の数が准教授の数よりずっと多いということがこの案の根拠だったと思うのだが,教授と助教授の数が同じという国立大学の原則には勝てなかったようだ.

院生の数もそれに連動して2倍以上に増えた.というかロジックは,社会の需要にこたえるため院生を増やす,その指導のため,教授,助教授の数も増やす,トータルの教員数は増えないのでその分助手がカットになる,というものだった.いろいろな企業には増えた修士や博士はうちで採用するつもりがありますという書類を書いてもらった.つまり最初から増えた院生は企業に行く計画であり,大学教員になる人の数が増えるということは想定されていなかった.なお改組から数年間は増えた院生の定員は絶対に厳守しなくてはいけないと言われていたが,現在は定員いっぱいの数は取っていない.

新しい組織を本郷と駒場のどちらに置くかという問題もあったが,授業のことを考えると駒場に置くしかありえなかったと思う.理系1, 2年生の授業の方が,数学科および大学院の授業の数よりずっと多いからである.教員が本郷にいたのでは授業のたびに駒場に行かなくてはならないことになる.(本郷駒場間は建物から建物で1時間弱かかる.) このため新しい組織は駒場に置くことになり,それに連動して数学科の学生(3,4年生)と院生も駒場に所属することになった.物理(や情報,計数など)と別キャンパスになるのはよくないという声もあったが,この授業の都合が優先された.

純粋に事務的な面からは数学科だけで組織が独立したことにはメリットとデメリットがある.メリットは自分たちの都合だけでいろいろなことを決められる,他の学科のことにはタッチしなくてすむということがある.昔は理学部の一部だったので,いろいろなことは理学部全体で決めなくてはいけなかったし,そのため理学部の他学科のことを決める会議にも出席しなくてはいけなかった.また東大全体でいろいろな予算を配分するときにも,理学部の一学科であるよりは独立した研究科であった方が分け前が多いということもある.奨学金など学生がもらうお金についてもそうである.デメリットの方はそんなに多くはないが,いろいろな東大全体の会議に人を出さないといけないということはある.前は理学部から一人出せばよかったので数学科にそれが回ってくることは少なかったが,今度は数学で一人出さないといけなくなったのである.

いろいろあって新組織が1992年4月にできたが,建物はすぐには建たないので教員は依然として本郷と駒場のそれまでの建物に分かれていた.会議や授業で本郷,駒場間を移動しなくてはならないことが大幅に増えてかなり不便だったのだが,1995年10月についに現在の数理科学研究棟ができた.ただしこの時できたのは現在の西半分(少し折れ曲がっているところまで)だけである.本郷にいた教員はこの時全員新しい建物に移動した.ところでこの建物で初めて授業をしたのは私である.1995年10月2日の数学科3年生の解析学VI(関数解析,Fourier 解析)である.小沢登高氏の学年であった.このときは数理科学研究棟の東半分はまだ工事中で,講義の際に窓から工事の様子がよく見えた.この学年では日直の担当者が毎回黒板に書いてあったりして面白い学年だった.私がこれまで教えた中で,一番多くの学生を覚えている学年である.

少しさかのぼって数理科学研究棟の設計が始まった1992年,私は UC Berkeley に長期滞在していた.UC Berkeley の数学科は Evans Hall というビルの上層部を占めており,大きなコモンルームからはゴールデンゲートブリッジとサンフランシスコの街がよく見える.このコモンルームが素晴らしいので東大数理でも同様のものを作りたい,眺めがよいのは無理でも広さは同様のものを作りたいという話があり,その参考のために UC Berkeley のコモンルームの設計図をもらってほしいという依頼が私のところに来た.そこで数学科の事務に頼んで設計図をもらって東大に送ったのである.これがどのくらい生かされたのかよくわからないが,東大数理には広くて立派なコモンルームができてよかったと思う.

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