ルーマニアで犬にかまれた話

一般的に言ってルーマニアは特に数学大国とみなされてはいないと思うが,私の専門の作用素環論ではルーマニア出身者たちが素晴らしい業績を挙げており,世界トップ級の重要国である.(有名な人はみなアメリカや西欧に脱出しておりルーマニアはほとんど残っていないが.) その関係でよくコンファレンスが開かれており,私も10回以上行ったことがある.

何故ルーマニアが作用素環大国なのかは複合した理由があると思うが,私の知っている理由は主に二つある.一つはまず1989年のルーマニア革命で夫婦で処刑された独裁者,チャウシェスク大統領である.チャウシェスク大統領は今の北朝鮮のような独裁体制を敷いていたのだが,息子が物理学者,娘が数学者であった.この娘の方は作用素環論の隣接分野である作用素論の研究者だったのである.そのためルーマニアの作用素環論関係者はいろいろ優遇されていたということである.ルーマニアで発行されている作用素論,作用素環論の主要国際ジャーナル J. Operator Theory の表紙には,長い間この娘の名前が印刷されていた.私は革命前のルーマニアには行ったことがないのだが,当時行った人によるとこの娘がコンファレンスに現れて政府関係者が特別に大事に扱っていたと聞いた.金正恩の娘が数学をやっていたらどうなるか考えてみるとよいだろう.この娘は革命の際に,国民が貧しい暮らしをしている中,金の皿で犬に餌をやっていたと非難されていて,革命後は自宅軟禁状態でその後亡くなったと聞いている.もう一つの理由は数学オリンピックである.旧共産圏では古くから数学オリンピックに力を入れていたのだが,ルーマニアでは出場者たちの間に密接な結びつきがあり,次々と出場者を作用素環に誘い込むということが行われていたらしい.ルーマニア人の作用素環論研究者たちは,一緒に数学オリンピックに出たとか,数学オリンピックのトレーニング合宿で指導を受けたとかいった関係があちこちにたくさんあり,数学オリンピックメダリストだらけである.なお最初は作用素論の方に重点があったのだが,作用素環論へのシフトを主導したのは Voiculescu と聞いている.

まずその中で Ocneanu が1980年代前半にイギリス出張中にアメリカ大使館に亡命してアメリカに渡った.次に Voiculescu が1986年のアメリカ出張で脱出した.さらに1987年に Popa が UCLA に長期滞在でやってきてそのまま戻らなかった.Pimsner もこのころ脱出を図ったのだが彼は残念ながら失敗して工場での強制労働に送られてしまった.当時ドイツ系のルーマニア人はドイツに出国してその代わりにドイツが名目をつけてお金を払うということが行われていた.実質的には,お金がないのでドイツ系住民を輸出していたのだが,Pimsner はこれが適用されると思ってドイツへの出国を申請したのだが認められなかったということである.しかしその彼も二三年後にはアメリカにに渡ることができた.その後1989年に革命がおこり,1990年ごろから私の世代の研究者が一斉にアメリカに渡り,その後もさらに若い世代の流出が続いている.現在のルーマニアに対する態度は,革命前に二度と戻れない覚悟で脱出した人と,あとから普通に出国した人とではだいぶ違うように感じる.

ルーマニア西部の都市ティミショアラでは2年ごとに作用素環論のコンファレンスが開かれており,私も8回行ったことがある.ここは小さな町で何も観光するところもなく,ルーマニア正教のカテドラルくらいしか見るものもないのだが,ここはルーマニア革命勃発の地である.ここで起きた大規模デモが発端となって,10日もしないうちにチャウシェスク独裁体制は崩壊したのだ.この町でデモの写真の展示を見たことがあるが,すごい熱気が感じられた. 2年ごとに何度も行っていると,経済的に発展していく様子がよくわかった.最初の頃はインターネット接続も全く貧弱でよくつながらなかったのだが,どんどんホテルの様子などもよくなっていくのが感じられた.ホテルのシャワーも最初まともに出なかったりしたのだが,それも急速に改善されていった.

ルーマニアでは2005年にデノミが行われた.大インフレが進行していて物価が上がりすぎたので,10,000レイを新たな1レイに呼び変えたのだ.お札はほぼ同じデザインで数字が変わり,サイズも少し小さくなった.私は海外出張の際はたいてい帰国するときに現地通貨を替えない.また来るときに使えばいいからだ.ドルやユーロはいつでも現金を持っている.ルーマニア・レイもお札を持っていて,デノミでどうなってしまうのかと思ったが,旧札もそのまま使えた.デノミ前のルーマニアではお金の数字にあまりにたくさんゼロがつくので,ten thousand (に相当するルーマニア語,以下同じ)のことを単に ten ということがよく行われていたそうである.デノミの後も古い単位で話す人たちがいて,単に ten と言われたとき,古い ten thousand = 新しい1レイのことなのか,新しい10レイのことなのか紛らわしいと聞いた.現地に暮らしている人は10倍違うのでどちらの意味か分かるのだが,アメリカに住んでいるルーマニア人たちは最新の物価水準がよくわからず,特に紛らわしくて困ったそうである.

ルーマニア語はラテン系の言葉であり,イタリア語にそこそこ似ている.私はイタリアにはよく出張するので簡単なイタリア語はわかり,そのおかげで結構わかったことがよくある.特に数字はイタリア語によく似ている.年寄り世代にはあまり英語が通じないのだが,若い人はたいてい英語を良く話せる.知り合いのルーマニア人数学者もしばしばイタリア語がそれなりに話せるようである.ローマ大学にも作用素環のルーマニア人教授が2人いた.

ルーマニア出張で最もひどい経験は2011年のブカレストで起こった.夜に街を歩いていると犬をけしかけている人がいて,その犬にかみつかれたのである.激しく吠えている犬がいて,かみつかれたやいやだな,と思いつつ,これまで50年生きてきて犬にかまれたことなどない,犬にかまれるなんて50年に一度も起こらないことなんだ,と自分に言い聞かせたまさにその時,その犬がとびかかって来たのだった.足首をかまれたのだが私は警戒していたので,傷になるほどではなかったが,狂犬病のワクチンは犬にかまれてからでも間に合うので打った方がよいという記事を読んで,翌日現地の人に連れられて医者に行った.しかし犬にかまれる人はとてもたくさんいるらしく,傷になっていないから大丈夫だ,と言われて追い返された.同じコンファレンスに来ていたドイツ人は同じ場所でかみつかれて,かなり大きなけがになってワクチンを打ったという話を聞いた.現地の人によると,いたずらで人にかみつかせて喜んでいるのだろうということだった.ひどい話である.そのすぐ後に成田に帰って来て,検疫のところでルーマニアで犬にかまれたと言ったところ,今からでも狂犬病ワクチンを打てと言われた.6回打たなくてはいけないそうだ.成田空港のクリニックでまず1回目を打った.その後東大医科研で2回目,3回目を打ったのだが,そこで体調を崩した.ワクチンの副作用である可能性は低いが,調子が悪いのならこれ以上打つことはないと言われて4回目以降は打たなかった.別に狂犬病にはならなかった.(狂犬病の致死率はほぼ100%である.) その後もルーマニアに何度か出張しているが,ルーマニア人の知り合いからは,よくこりずにまたルーマニアに来るものだ,と驚かれている.

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