帝国ホテルと数学者

世界各地に出張していろいろなところに泊まったことがある.大学や研究所の宿泊施設に泊まることもよくあるが,当然ホテルに泊まることも多い.研究集会で講演する場合はまとめて向こうがホテルを取ってくれることが普通である.共同研究などのための大学訪問だと向こうで取ってくれることもあるが,自分で取ることもある.私はホテルなんてどれでも大して変わりがないと思っているので,自分で取るときは目的地のそばで検索して一番安い方のものにすることが多い.概して数学者は特に高級なホテルに泊まることはあまりないと思う.研究集会でフィールズ賞教授と一緒になったことは何回もあるが,たいてい私と同じ,ビジネスホテルと大して変わらないようなところに泊まっていた.

このように数学の研究集会で豪華なところに泊まることはめったにないが,田舎だと結構立派なホテルになることもある.アメリカのホテルはしばしばきれいで部屋が広い.これに慣れた人が東京のビジネスホテルに泊まったら,狭くてやってられないと感じることだろう.実際アメリカからのゲストを渋谷のビジネスホテルに泊めたことがあるが,初日にこんな狭いところは嫌だ,ホテルを替えてくれと言われたのだった.もっともロンドンやパリの中心部だと,安いホテルは東京並みの狭さだと思うのだが.

アメリカのホテルは近年急速に値上がりしている.UCLA のすぐ前には20年位前は一泊50ドル台の安いホテルがあった.私の学生時代からあったものでかなり古く,駐車場がないのが不便と言われていたが別に私にとっては駐車場は不要である.いつもそこに泊まっていたのだがまず2倍以上に値上がりした後,もっと高いお金が取れるようにということで全面改築して高級ホテルになってしまった.MIT のすぐ近くのホテルも割と上品で気に入っていたのだがこの10年で2倍以上になってしまった.UC Berkeley も大学に一番近いあたりのホテルは大幅に値上がりしたが,10分くらい歩くとまだもう少し安いホテルがある.

昔イギリスのウェールズに行く際,飛行機でロンドンに夜着いて一泊しないといけないことがよくあった.その頃は空港近くの高級ホテルが空いていると,当日に空港のカウンターに行って大幅な割引で泊まれるという仕組みがあり,よく使っていた.高級ホテルに数千円で泊まれて便利だったのだがこの仕組みもだいぶ前になくなってしまった.イギリスのホテルの朝食はたいてい豪華なイングリッシュブレックファーストがついている.(ヨーロッパ大陸だと簡素なコンチネンタルブレックファーストのことが多い.アメリカのホテルは朝食がついていないところの方が多いが,立派なものがついていることもある.) ウェールズではイングリッシュブレックファーストではなく,ウェルシュブレックファーストだと主張していたが,私には全く同じものに見えた.

ローマでは長期滞在用のレジデンスホテルというものによく泊まっていた.場所がちょっと中心部から外れていたが安いのでよく使っていたのだ.ある時東大数理の同僚教授にこのホテルのフロントでばったり会ってとてもびっくりしたことがあった.やはりローマ大学に出張しに来たということであった.その後私のホストがもっと便利なホテルを見つけてきたからということで最近はもう少し便利な場所に毎回泊まっている.これは個人経営の小さなホテルで,知らなければホテルと気づかないような外見である.特に普通のホテルの部屋に加えて,少し離れたアパートの中の一室を持っており,私はここによく泊めてもらうが,ローマの普通の住宅の様子を味わうことができる.私は海外出張の際によく空港の本屋で小説やガイドブックを買って,帰りはそのままホテルの部屋に置いて来る.別に捨ててもらっていいのだが,その本がそのままホテルの部屋においてあることが時々ある.このローマのホテルも何度も同じ部屋に泊っているのだが,私が置いて行った日本語のガイドブックや小説が何冊もいつも部屋に置いてある.

私が泊まった中で一番安かったのは大昔のパリで一泊100フラン(当時のレートで約2,000円)だった.院生時代にパリ郊外の研究所 IHES に長期滞在していて,冬休みに日本に帰ったのだが飛行機が朝割と早く,かつ地下鉄がストライキで止まるというので空港の近くに泊まらないといけなかったのだ.目いっぱい安いホテルを探したのがこれだった.狭くてぼろかったがまあ一泊だけなので特に気にならなかった.ところで当時のパリでは交通機関のストライキがよくあり,ストライキを意味するフランス語 grève は注意すべき重要単語だった.ついでにイタリアもよくストライキがあり,ストライキを意味するイタリア語 sciopero も重要である.

逆に私が出張で泊まった中で一番高級だと思ったのはウィーンのSchrödinger 研究所に行ったときのホテルである.最初に行ったときは何かの間違いではないかと思ったほどである.私は二三週間滞在したので,長期滞在用アパートメントスタイルという部屋で朝食はついていなかったが,ウィーンの街で朝からいくらでもいろいろなパンが買えるので別に不便はなかった.

研究費で出張してホテル代を払うと赤字になるという話をネットで書いている国内大学関係者がよくいるが,私の感覚とかなり違っている.宿泊費の規定は各大学が決めているものだが,東大の規定は国内出張(准教授以上)の場合,宿泊が一泊13,100円,日当が一日2,600円である.日当とは食費やバス代などにあてるものだ.海外出張の場合は,欧米などが宿泊一泊23,000円,日当一日6,000円,その他の地域が宿泊一泊13,000円,日当一日4,500円である.さらに領収書を出して手続きすれば宿泊費はこの2倍まで認められる.それでも足りない時は理由書を出せば払ってもらえる.私は200回以上海外出張しているが,今までこれで赤字になったことなど一度もないし,2倍という特別ルールを発動したことも一度しかない.2倍ルールを使ったのは欧米ではなく,チリのサンチャゴのインターコンチネンタルホテルである.(そもそも海外出張の多くは研究集会の招待講演なので宿泊費は先方で払ってくれるものだが.) サンフランシスコやニューヨークの中心部のホテルなら確かにバカ高いが,私は学会でそんなところに泊ったりすることはない.赤字になるという人はいくらもらっていくらのホテルに泊まっているか不思議である.

前にフランス人のゲストを東大に呼んだ時,一泊200ドル以上のホテルを取ってくれと言ってきた.大学の近くでなくてもよいということだった.上限ならともかく,値段に下限を言ってきたのはこの人が初めてである.東京の狭いホテルは嫌なのだろうと思い,比較的すいていてホテルの値段が高くない時期だったこともあって,帝国ホテルを取った.満足してくれたようである.フィールズ賞級の人を東京に呼んだことは何度もあるが,帝国ホテルに泊まった数学のゲストはこの人だけである.

(2022年追記) 欧米のインフレと円安の進行により,さすがに一泊23,000円では苦しくなってきた.特にアメリカの場合にそうである.しかし今のところ2倍ルールの範囲に収まっている.

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