ウェールズとウェールズ語

先祖代々イギリスに住んでいるが母語は英語ではないという人たちがイギリスにはいる.そのような言語はいくつかあるのだが,その一つがウェールズで話されているウェールズ語である.私はウェールズの首都カーディフと,第二の都市スウォンジーに何度も行ったことがある.

イギリスは「グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国」であり,イングランド,ウェールズ,スコットランド,北アイルランドからなる.サッカーやラグビーのワールドカップにこれらが別々の国として出場していることは時々話題になるが,普段はあまり別の国とは認識されていないであろう.特に日本ではイギリスすなわちイングランドという意識が強い.このうちスコットランドは昔ははっきり別の国だったし,今も独立運動がよく話題になる.また「北」のつかないアイルランドはもちろん別の国であり,アイルランドと北アイルランドの関係も複雑である.それに対し南西部のウェールズは一番目立たない印象である.イギリス皇太子をプリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ公)と呼ぶことで名前が記憶されているくらいではないだろうか.

私の共著者である Evans はウェールズ人であり,ウェールズの大学に勤めているので私は共同研究のため何度もウェールズに行った.1998年まではウェールズ大学スウォンジー校,そこから後はカーディフ大学である.(この狂牛病時代のイギリス渡航のため私は今も献血することができない.) 彼の母語はウェールズ語であり,家庭でもウェールズ語を話している.(ただし彼の奥さんはタイ人なので,子供は英語,ウェールズ語,タイ語を話している.) 店などでは普通に英語が使われているが公式の看板ではウェールズ語も広く使われており,BBC にはウェールズ語のチャンネルがある.ウェールズ語は英語の方言などではなく,かなり違う言語である.いろいろなところで英語とウェールズ語の2か国語表記があるが,見比べても綴りは全然似ていないことがよくある.たとえば Cardiff University はウェールズ語では Prifysgol Caerdydd である.(語順がひっくり返っている.) 世界最長の駅名とされる Llanfairpwllgwyngyllgogerychwyrndrobwllllantysiliogogogoch もウェールズ語であるが英語に似た要素は全然見当たらないであろう.このつづりの語頭の LL はウェールズ語独自の子音であり,カタカナでは書けないような独特の発音である.保険で有名なロイズ (Lloyd's)も LL で始まっており,もとはウェールズ語の名前である.

スウォンジーは海辺の比較的小さな保養地である.いつも同じ宿に泊まっていたが,この宿の人は私の名前 Kawahigashi を正しく覚えられず,いつも Professor Kawasaki と呼んでいた.Kawasaki はバイクメーカーとして国際的に有名なのだ.最初二三回は名前の訂正をしていたが,いつも間違えるのでもういいやという気分になってほっておいたところ,1年後に行った時もやはり Professor Kawasaki と呼ばれたのだった.この宿のイングリッシュ・ブレックファーストは立派なものでよく覚えている.(なおイギリスの食事は一般にあまり評判がよくないと思うが,私は別に不満はない.フィッシュアンドチップスなどが好きである.) カーディフの方はスウォンジーよりはだいぶ街のサイズが大きく,サッカークラブでも有名である.ウェールズは赤い竜の独自の旗を持っており,カーディフではよく街中で見かける.ウェールズでは結び目を装飾模様として使う古くからの文化があり,ときどき街でも見ることがある.私が Evans と書いた本 "Quantum Symmetries on Operator Algebras" (Oxford University Press)の各章冒頭についている結び目模様はウェールズのものである.

1988年にスウォンジーで数理物理の大きな国際学会 International Congress on Mathematical Physics が開かれた.参加者の中に Atiyah と Witten がいたのだが,彼らと Segal がスウォンジーのレストランに行った.ここで Atiyah の質問に対して Witten が答えてレストランのナプキンに書き下したのが論文 "Quantum Field Theory and the Jones Polynomial" 中の有名な式であると言われている.私はこのレストランで食事したことがあるが,残念ながら特別のひらめきは生まれなかった.なおこの店はもうつぶれてしまったので今からでは行ってみることはできない.

アメリカのある教授が Evans に郵便を送ったことがあったのだが,ウェールズ人は自分の住所を書くにあたり,ウェールズこそ国名であるという意識で,最後に単に Wales と書き,United Kingdom (イギリス全体を表す一番普通の英語表現)とはつけないことがよくある.Evans も自分の住所をそう書いており,アメリカの教授もこれに従ったのだが,郵便発送を頼まれた秘書は,これは国名が書いていない,自分が書き足す必要があると思い,Wales, Australia と書いたのだった.オーストラリアにはシドニーを含むニュー・サウス・ウェールズ州というものがあるが,もちろんこれはイギリスのウェールズにちなんであとからつけられた名前である.この郵便はいったんオーストラリアに送られた後,誤配としてイギリスに転送されたのだった.Evans が笑いながらこの封筒を見せてくれたことを覚えている.

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