履  歴  書
氏名: 河東泰之(かわひがしやすゆき) (私は「かわとう」ではありません.) 昔の名前は浅野泰之
1962年5月生まれ(61歳)
1975年3月 私立麻布中学入学
記憶にある限りの昔から,漠然とは数学者になりたいと思っていた. 明示的に大学教員としての数学者になりたいと思ったのは中学1年の時だ. 生まれたのは東京都(大田区)だが,何度も引っ越し,千葉県(市原市),埼玉県(草加市),東京都(杉並区)を転々とする. 元同僚(現IPMU)の中島啓氏は中学からの同級生. このころは,数学の本はわかってもわからなくても手当たり次第に読んだ. 今に影響してるのは,Rudin "Functional Analysis", Arveson "An invitation to C*-Algebras", 斎藤正彦「超積と超準解析」,シュヴァルツ「位相と関数解析」など. 岩波「基礎数学」,ブルバキ「数学原論」(日本語訳)も当時出はじめたので買って読んだ. 数学セミナーも1年生の時から熱心に読んで,「エレガントな解答を求む」などをやっていた. このころ一番難しくてわからないと思った本は,ヘルマンダー「多変数複素解析学入門」だった. 友隣社や東大数学科の図書館にもこのころ行った.東大教養の自主セミナーでやっていた, "Topology from the differentiable viewpoint" (Milnor)にも出た.
1978年3月 私立麻布中学卒業
1978年4月 私立麻布高校入学
コンピュータばかりやっていた.TK-80, PC-8001を使っていた.友達が買った Apple IIもかなり使った. 月刊 ASCII に1980-81年に4本ゲーム(トランプ,オセロなど)の原稿を載せた. 最初は 8080 のハンドアセンブルで,CD 20 80 などと手で書いていたが, 大変なのでZ80のアセンブラを自分で作った. 一番たくさんプログラムを書いたのはZ80アセンブラだ.ほかには,6502, 6809なども使った. 数学は Non-standard Analysis の本をいくつか (Robinson, Luxemburg-Stroyan など)読んだ. 1980年に広中平祐先生のしていた「数理の翼」セミナー第1回に参加.
1981年3月 私立麻布高校卒業
1981年4月 東京大学教養学部理科I類入学
駒場のサークル,物理研数学パートに入った.2年上に古田幹雄氏,1年上に小野薫氏,同学年に小林俊行氏がいた. 東大マイコンクラブにも行ったが,新入生が素人ばかりなのですぐやめた. ASCIIのバイトで,雑誌記事の手伝い,原稿書き,NEC PC-6001のマニュアルの下請け,解説書書きなどをしていた. 当時のASCIIは,表参道のコムデギャルソンと同じビルにいて,服装のぼろい若いやつがASCII,ファッショナブルなやつがコムデギャルソンと言われていた. PC-6001用のゲームAX-3「マイクロオセロ」,PC-8801用のゲームAZ-1「フライトシミュレーター」, 「パソピアの内部構造」,「PC-9801システム解析(上・下)」などを書いて印税で暮らしていた. 最初の方の仕事は手間の割りにそんなにもうからなかったが,最後の9801解説書が割と長いこと売れたので助かった. (この本は発売当日の昼休みに東大生協で見ていたら,たちまち20部くらい目の前で売れて,これはすごいベストセラーだと思ったが,そんなに売れたのは初日だけだった.この前の本は全然売れなくて,秋葉原で一日立っていたが一冊も売れるところは見られなかった. 自分の本が売れるところを見るのはやはりベストセラー作家などでないとだめなのかと思っていた.) この本は上下あわせて5万部売れたが,今後私がどんな数学の本を書いてもこの記録を抜くのは不可能であろう.
1983年4月 東京大学理学部数学科進学
ASCIIのバイトは段々やめて,少しはまじめに数学の勉強をした. (最後にASCIIでやった仕事は月刊誌"Networker"のパソコン通信に関する連載コラムである.この雑誌はその後まもなくつぶれたが,私の連載のせいではない,ような気がする.) 4年のセミナーは,小松彦三郎先生のところで Douglas "C*-algebra extensions and K-homology" を読んだ.人のやらないことの方がおもしろいとも思って作用素環を選んだ. この本は C*-algebra の一般論と K-theory は予備知識として仮定されている本で大変だった.4年生の夏休み前に,小松先生からアメリカに留学したらどうですか,と言われた. 最初 Princeton はどうかと言われたが,調べてみると Princeton の先生はかなりやっていることが違うので,いろいろな人に聞いてUCLA, UC Berkeley, Stony Brookの3校に願書を出した. 英語のテスト,TOEFLは553点だった.UCLA が一番よさそうだったので,12月に UCLA に決めた. (当時の Berkeley にはまだ,Jones も Voiculescu もいなかった.) このころちょうど,Jones polynomialのpreprintが回って来て,すごいと思った.
1985年3月 結婚
UCLAへの留学が決まったので,理Iの時の同級生,河東晴子(電気工学科)と結婚した. 名字を浅野から河東に変えた.さすがに最近は,私のことを浅野君と呼ぶ人は減った. 俳句の河東碧梧桐は妻の曽祖父の弟. この時以来,日本の住所は鎌倉.
1985年3月 東京大学理学部数学科卒業
1985年4月 東京大学大学院理学系研究科数学専門課程修士課程入学
1985年9月 University of California, Los Angeles (UCLA)数学科大学院博士課程留学
夏休みにStanfordで外国人新大学院生向けの英語研修コースに出た. 最初の数ヶ月は英語が上達しているような気分があったが,それでstableな状態に達し,あとはあまりうまくならなかった. UCLA では竹崎正道先生についた.最初はセミナーで,Blackadar"K-theory for operator algebras"を読んだ. いっしょに読んでいたのは,Ruan (現University of Illinois at Urbana Champaign教授)と山ノ内さん(現東京学芸大学教授). Ocneanu が秋に集中講義に来て初めて会った.Paragroup 誕生前のものだが,すごい講演だった.
1985-86年 Chancellor's Fellow, UCLA
これは,UCLA全学の fellowship. Stony Brook と UCLA は前年度に私の奨学金のセリをやり,5500ドルから始まって双方2回ずつ金額を釣り上げ,最後に UCLA の授業料免除プラス1万ドルで決まった. 当時1ドルは250円くらいで,大卒初任給は月給15万円くらいだったのでとても景気がいいと思った.Berkeley は一発解答で授業料免除プラス5000ドルくらいだった.
1986年6月 UCLA修士号(M.A.)取得
私の入ったのは博士課程だが,途中で書類を1枚出すだけで修士をくれると言われたので取った. アメリカの修士は論文もなく,単位と試験だけで取れるので私はふだんはアメリカの修士を持っていることは隠している.
1987年3月 東京大学大学院理学系研究科数学専門課程修士課程修了
日本で修論発表をした.単位は UCLA の分を1年分移した.
1987年4月 東京大学大学院理学系研究科数学専門課程博士課程進学
1988-89年 Alfred P. Sloan Doctoral Dissertation Fellow
これは民間財団の奨学金.格の高いものとされていて,全米の各数学科からの推薦に基づいて決まる.
1988,89年 Mittag-Leffler Institute (Sweden) Fellow (for 2 months)
スウェーデンに1988年9月と,1989年5月の各1ヶ月ずつ行った.作用素環がこの年の年間プログラムで人がたくさんいた. 主催者のHaagerupにこの時会い,後々まで続くデンマークコネクションができた.
1988-89年 IHES (France) yearlong visitor
竹崎先生がサバティカルでフランスに行ったのについて行った. Connes は超人的にすごいと思ったが,パリの人たちはあまり古典的な作用素環論をやっていなかった. IHES の アパートでは,学位を取ったばかりの R. Taylor と同じ家に住んでいた. 彼はその後,Fermat の最終定理の最後のギャップを Wiles と埋め,超大物になった.
1989年6月 UCLA Ph.D. 取得
博士論文はフランスで書いてアメリカに郵送した. 本来は博士論文の発表審査会 (final defense) というのをやるはずだが,私はフランスにいるからアメリカに行けないと言い張って,例外的に免除してもらった. Final defenseをやっていないと言うとみんな驚く.君の博士はインチキですね,と言われたこともある.
1989年6月 東京大学大学院理学系研究科数学専門課程博士課程退学
日本側もずっと在籍のままにしていたが,助手に決まったので日本側を中退にした.
1989年6月 東京大学理学部・助手(数学教室)
日本に帰国して助手になった.
1990年6月 理学博士(東京大学)取得
日本の博士も取っておいた方がいいと言われて論文博士を取った.
1991年4月 東京大学理学部・講師(数学教室)
下の Berkeley 行きの話を進めていて2年行くことになったところで,講師になることが決まり,Berkeley 行きを1年にカットした.
1991-92年 Miller Research Fellow, University of California, Berkeley
これは格の高いポストとされているもの.Jones の力で通してくれたはずだ.Perelmanがついていたのもこのポスト.この年は3回ヨーロッパに行った.全部子供を連れて行ったので疲れた.
1992年4月 東京大学大学院数理科学研究科・助教授
改組で数理科学研究科になった.何だか忙しくなったと思う.
1999年10月 東京大学大学院数理科学研究科・教授
2000年9月-2001年5月 MSRI General Member (for the Operator Algebra Program)
1年間の作用素環プログラム.Berkeleyの町は8年振りで懐かしかった.
2000年11月 第1回作用素環賞受賞
日本の作用素環の方々によって作られた新しい賞.たいへんありがとうございます.
2002年3月 日本数学会賞春季賞受賞
皆様ありがとうございました.
2011年4月-2012年3月 京都大学数理解析研究所国内客員教授
プロジェクト研究のための客員ポスト.
2011年4月 東京大学 Kavli 数物連携宇宙研究機構 (WPI)併任研究員
こちらのページにあるとおり,上級科学研究員という形の併任.
2019年5月 理化学研究所 客員主管研究員
客員研究員の一種.
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