数理の翼夏季セミナーと湧源クラブ

広中平祐氏が始めた高校生向けの数理の翼夏季セミナーというものがあり,私は1980年にその第1回に参加した.これは今も続いており盛んにやっているようだ.前に日本数学会の『数学通信』の記事でもこれについて書いたことがあるのでかなり重なるところがあるが,また書いてみよう.

1980年に広中氏が新たに高校生向けのセミナーを実施するということでかなり大きな記事が新聞に出た.今計算してみると広中氏は当時49歳だったのだが,フィールズ賞や文化勲章を取った天才数学者として今よりずっと有名だったと思う.応募は高校経由で行われるということだったので高校の先生に頼んで応募した.場所は那須で,参加費は当時も今も無料である.今は「交通費は一部補助,経済的な問題がある場合に限り全額補助」ということだが,私の時は交通費も全額もらった.こんなにただで参加してもいいのかと思ったことを覚えている.

広中氏自身の講義があり,ほかにもいくつかの講義があった.私は徹夜でトランプをしていて昼間とても眠かったので,たいへん申し訳ないことに講義の中身はほとんど何も覚えていないのだが,その中に,当時とても高価だったパソコン Apple II を使った講義があった.Apple II は友人が持っていて,私は機械語も含めたプログラミング経験があったので,興味を持っていそうな他の参加者に機械語は面白いよ,と強く勧めた.そのうちの一人はのちに東工大に進み,私が大学生の時に書いた本『PC-9801システム解析』の共著者になった.

高校生は40人くらい参加していたのだが,私を含めて4人が数学者になった.たとえば東大数理の同僚の小木曽啓示氏もこの時の参加者であり,彼は広中氏と同じ代数幾何学の研究者である.ほかにはロボット工学の東大教授になった國吉康夫氏や,NHK経営委員を務めた,はこだて未来大学教授の美馬のゆり氏などもいた.立教大学文学部の教授をしている人もいる.1回目で広中氏のネームバリューもあり,参加者にも講義内容にも数学色が強かったと思う.その後回が進むにつれて生命科学寄りの人も多くなってくるのだが,この時はあまりそういう色彩はなかった.たとえばこの時の参加者で医学部に進学した人は(いるのかもしれないが)私は一人も知らない.

第1回の時から,できるだけ幅広い範囲の高校から参加者を集める,そのため一つの高校からは一人しか取らない,女子生徒もできるだけ多く取る,という方針だと聞いている.そのため数学オリンピックの行事などと比べるとずっと多くの高校に参加者が散らばっている.私は教員になってからも,14, 21, 32, 38回に講師として参加した.私の講義の内容は,それぞれJones 多項式,超実数,Fourier 級数,符号と球充填問題である.高校生に完全にわからなくてもよいから,最先端につながる話をしてほしいと言われた.参加の後で東大や京大に進学する学生はとても多く,東大で教えていて,この参加者だったという話はよく聞く.

このセミナーの参加経験者を集めた湧源クラブというものがある.これは私が大学2年生だった1982年の秋に始まったもので私もそのオープニングの式に出た.当時は広中教育研究所が金銭的援助をしており,恵比寿駅前のビルの一室を借りていた.数学,物理,コンピュータなどの学生サークルのような感じで活動していた.東大の学生,院生が多かったが,都内のほかの大学の学生もいた.大学3年生,4年生の頃はサークルの部室のような感じでよく深夜までここにたむろしていた.私が1〜2年生の時に入っていた学生サークル,物理学研究会数学パートは3年生以上は活動していなかったので,この湧源クラブが私にとって大学サークルの代わりのようなもので,私は運営委員という役職もやって機関誌の発行にも関係していた.

当時の活動の一つとして,マンデルブロ『フラクタル幾何学』の翻訳書出版があった.この訳書は広中氏の監訳として,日経サイエンス社から出版されたが,この翻訳の実働部隊は湧源クラブで,クラブ室で多くの学生が互いにいろいろ相談していたのを覚えている.(私自身はこの翻訳には参加していない.) 定義,定理,証明と続く数学の本は英語が簡単なのだが,この本は著者がいろいろと自分の考えを語っている部分が多く,英語がかなり難しかったため,みんなでうんうんうなりながら翻訳作業を行っていた.今ではこの本はちくま学芸文庫として出版されている.

このクラブ室はもうなくなってしまったが,湧源クラブそのものは現在も盛んに活動しているようだ.地方には支部もあり,特に関西支部は京大在籍者がたくさんいるので活発にやっているらしい.昔より湧源クラブの学生の専攻の幅が広がっているので,いろいろな分野の学生が交流できる場所があるのは大変良いことと思う.学生の勉強会,新入生歓迎会,合宿などの活動があり,ニュースレターのようなものも発行されている.これは私が運営に関係している頃に始まったものだ.私が始めた頃は,"Un Puits de Science" (フランス語で「科学の泉」の意味)という会誌を作って,できるだけ学術的な記事を載せるという計画だった.私も多変数複素関数論の記事を載せたことがあるが,そういう記事は書くのがとても大変である.そのためすぐに原稿が集まらなくなってしまい,続行が困難になってしまったため,もっと気軽な会報のような冊子を出すことになった.上記の "Un Puits de Science" は「ピュイ」と略称されていたので,その小型版で「プチ・ピュイ」,さらに「ピュイでないもの」という意味で「ノン・ピュイ」という名前がついた.さらにその電子版で「デン・ピュイ」というものもできた.これらの名前は今でも使われているようだ.

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