パソコン印税生活

私は大学生の頃,パソコン関係のプログラム,本の印税で暮らしていた.このことはあちこちに書いており,「数理科学」2021年3月号の記事と重なる部分も多いのだが,独立した記事として書いてみたい.

最初に私の作品が活字になったのは1980年,高校2年生の終わりごろである.当時最新鋭パソコンだったPC-8001用に BASIC 言語でちゃちなテレビゲームを友人と二人でささっと作って月刊雑誌 ASCII (アスキー)に投稿したところ,掲載されたのだ.当時のパソコン雑誌では読者が投稿したプログラムをそのまま印刷して記事にしているものがたくさんあった.もうちょっと凝ったものを作ろうと思い,自作の Z80 アセンブラでオセロプログラムを作って投稿したものが次に載り,さらにその改良版もまた載った.その後今度はスタッド・ポーカーのゲームソフトも載せた.それとほぼ同じ頃,1981年4月に東大に入学した.東大マイコンクラブにも入ろうかと思って行ったのだが,新入生は大学に入って初めてパソコンに触りましたというような人ばかりだったので,やめにした.東大には平安京エイリアンという商用ゲームを開発した TSG というサークルもあったのがそちらはあまり熱心に新入生を誘っていなかった.サークルはパソコン関係はあきらめて,物理学研究会数学パートという純粋な数学の勉強会に入った.

アスキー社では私が大学に入ったことに気づいており,新しく発売される NEC の PC-6001 のゲームソフトを作らないか,という話が来た.私のオセロプログラムを改良したものと,あとは適当なテレビゲームをいくつか追加してほしいということだった.パソコンはソフトがなければ何もできないので,NEC としては機械本体とほぼ同時にゲームソフトをアスキーから売り出してほしい,そのために発売前の機械を貸し出す,という案件だった.私はこれをO.K.してプログラムを書き,シリーズ第3弾「マイクロオセロ」とし売り出された.シリーズ内のほかの作品はほぼ東大マイコンクラブの人たちが作っていた.上に書いた通り,私はこのサークルの同級生は素人ばかりだと思っていたのだが,実際は上級生にはかなりの技術を持った人たちがそろっていた.NEC と組んだ企画だったのでライバル社はなく,我々の作品はよく売れた.当時アスキー社は表参道駅のそばにあった.コムデギャルソンと同じビルに入っており,そちらにも若い人がたくさん出入りしていたが,アスキーとコムデギャルソンの人は服装で簡単に見分けがつくと言われていた.この作品はかっこいいデモプログラムを書いた人の印税が1%,私が7%の契約だったのだが,ある日アスキー社に行ったらいきなり100万円以上の現金を手渡しでもらってとても驚いたのだった.その日まで私はいくらもらえるのか全くわかっていなかったのである.その後ツクダオリジナルから,「オセロ」は彼らの登録商標であるという抗議があり,いったん販売を停止したが,名前を「マイクロターン」に変えて売り続けた.

次の作品は大学2年生の時に書いた PC-8801 用フライトシミュレーターだった.これも私がアセンブラで書き,新発売の PC-8801 用ゲームソフトシリーズ第1弾として売り出された.おまけとして簡単なブロック崩しも入れておいた.これもかなりよく売れた.当初ゲームは素人同然の学生などが一人で作るものだったのだが,この頃から本格的なゲーム産業が始まりかけており,音楽,画像などを分業してプロが作るという流れになって来ていた.私はこの流れにはついて行けないと思ったので,パソコンの技術的な解説書やそれに載せるプログラムを書く仕事に転換した.

最初に書いた本は『パソピアの内部構造』である.パソピアというのは東芝から発売された新しいパソコンであり,3人で分担して書いた.私はハードウェアがらみの部分は詳しくなかったので,機械語と Pascal 言語の部分を担当した.この機械はあまり魅力的でなく,売れ行きも思わしくなかったのだが,とにかく本を書く仕事がやってみたかったので引き受けた.本の発売直後には秋葉原の専門書店に行った.自分の本が売れるところが見たくて一日売り場に立っていて,私の本を手に取った客二三人に「買え!」と強く念じたのだが,残念ながら誰も私の本は買わなかった.

その次の本は NEC の新しい16ビットマシン PC-9801 の技術的な解説書『PC-9801 システム解析(上・下)』だった.この本は私のほか,ソフトウェア担当の東工大生1人,ハードウェア担当の早大生2人の合計4人で600ページ近く書いた.これも NEC と組んでおり,発売前の機械や技術情報をいろいろもらった上で本を書いた.私はソフトウェア担当で,8086 アセンブラでフライトシミュレーターなどのプログラムを書いていた.数値演算コプロセッサ 8087 も私の担当で,いろいろな数値計算をやった.大学3年生の前半の半年をほぼこの本に費やした.この本は上下合わせて5万部売れた.今度は私の本が売れる瞬間をたっぷり見ることができた.東大生協で見ていて,飛ぶように売れるとはこのことだと思った.私の数学の本では絶対に破れない記録である.印税は4人合わせて8%で,書いたページ数に比例して私が1/3くらいを取った.大学生生活の後半はほぼこの本の印税で暮らしていた.印税は毎月精算で増刷がかかると一気に増えるのだが,いつ増刷になったのかは私には知らされておらず,毎月の印税がいくらなのかは銀行に振り込まれるまでわからなかった.このため毎月振り込み日に ATM の前に立つのにはかなり緊張した.ところでアマゾンでこの本を調べると今でも「コレクター商品 ¥5,000」という売り物が表示されるのだが,いったい何のことなのだろうか.

私の仕事は印税計算と原稿料の字数計算の両方があったのだが,どちらの場合も活字になったもので1ページあたり2万円くらいが相場だった.当時パソコン関係の仕事でもワープロは普及しておらず,原稿は手で書いていたのだが,変則的なアスキー社専用の原稿用紙を使っており,原稿用紙1枚あたりという計算はしたことがなかった.なお私は現在数学者としていろいろな原稿を書く機会があるが,その原稿料は1ページ2万円には遠く及ばない.

その後アメリカに大学院留学の予定が決まったので,クレジットカードを作りたいと思った.当時は学生用クレジットカードというものはほとんどなかったので,私は自分で「職業: 文筆業」と書いて3社のカードに申し込んだ.収入の証明として確定申告書をつけたと思う.1社からは却下されたのだが,あとの2社はちゃんと発行してくれた.そのうちの1枚は今も使い続けている.東大に就職したという届はその後出した記憶がないので,このクレジットカード会社は今も私の職業を文筆業だと思っているのかもしれない.

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