ストックホルム・パリ24時間列車移動

1988年の秋,UCLA の大学院生の最後の学年,ストックホルム郊外の Mittag-Leffler 研究所に1か月滞在した.私がここに行った目的は作用素環の研究プログラムであり,オーガナイザーは Haagerup と Størmer だった.ストックホルムにはロサンゼルスから行ったので,今はなきパンナムの大西洋路線に乗った.この研究所は Mittag-Leffler の自宅を改築したものだ.彼はノーベル数学賞がない原因とよく言われるスウェーデンの数学者であり,本当のところははっきりしないのだが,ノーベルと彼の間に女性関係で争いがあったのが原因という説は根拠がない.一時期彼は大金持ちで,自宅を数学研究所にするよう言い残したのだが,その後経済的トラブルがあり,亡くなった時にはその遺産はそれほどの額ではなくなってしまっていた.彼の死後だいぶたってから研究所の本格的活動が始まったということだ.私が行ったときは,巨大な彼の座像が中央の部屋にあり,また彼自身が集めた古い数学ジャーナルの立派なコレクションの本棚があらゆる部屋の壁を天井まで埋めていた.古いフランスのジャーナルの一冊を棚から抜いてみると,Cauchy の論文が載っていたりする.数学のトップジャーナルの一つ,Acta Mathematica はこの研究所が出版しており,一度その編集会議で(フィールズ賞の) Hörmander が来ていたのを見たことがある.E-mail 用のコンピュータ室があったのだが,そのコンピュータはテトリスに熱中した数学者にいつも占領されていた.宿舎は研究所の中にあり,デンマーク人の大学院生と一緒だった.

その後,ストックホルムからパリに移動することになっていた.当然飛行機で行くものと思っていたところ,列車で行ける,その方がずっと安いという話を聞いた.ストックホルムとパリは地続きではあるが,陸伝いに行くにはスカンジナビア半島の根元のほとんど北極圏に近いところを通らなくてはいけないので非現実的だと思っていたところ,そうではなく,スカンジナビア半島の先端から海を渡って電車でドイツに行けるのだという.調べてみると,列車ごとフェリーに乗ってまずデンマークに行き,さらに再びフェリーに乗ってドイツに行くのだということだった.(なお今はスウェーデンからデンマークへは橋とトンネルでつながっているが,当時はまだこれはできていなかった.) さらに乗り換え駅は,コペンハーゲンとハンブルクであり,パリまで合計24時間だということであった.そこでコペンハーゲン観光に一日昼間を使い,ストックホルム・コペンハーゲンとコペンハーゲン・パリを夜行列車で移動することにした.クシェットという安い簡易寝台車の切符を買った.当時はヨーロッパ統合前だったので,国境でパスポートチェックがあったが,車掌にパスポートを預けておくと寝ている間に通過できるのだった.

海を渡る部分では列車が丸ごとフェリーに乗り込んでいき,全部乗り切ったところで乗客は降りてフェリーの中で自由に行動できる.店で買い物や食事をしたあと,降りる前にまたフェリーに乗り込むのだ.食事に出たところで,知り合いの日本人大学院生にばったり会ってとても驚いた.乗り換えのコペンハーゲンは小さな街である.駅のすぐ前にあるチボリ公園(遊園地)に行ってみたが,あまりたいしたことはなく,その後コペンハーゲンには10回近く行っているがこの公園には二度と行っていない.人魚姫の像も行ってみたが,世界三大がっかりの一つと言われる通りで,ちょっときれいだが期待ほどではない.かなり小さいことと,バックの工場があまりきれいでないことが主な原因である.その代わり中心部のストロイエと呼ばれる通りはなかなか良かった.中心部からここを通って海側まで行ってみたのであった.道端のお年寄りにも英語がよく通じて便利だった.概してヨーロッパは北の方ほど英語がよく通じる気がする.もう1回の乗り換えはハンブルクで,一歩だけ駅の外に出てドイツの大地に足跡をしるしたと思ったが,それだけですぐ次の列車に乗ってしまった.ずっとあとになってハンブルクは何度か行ったことがあるが,落ち着いてきれいな街である.

パリは初めてだったので,最初の数日は片っ端から有名観光地を回った.しかしそれで一通り見終わって,その後は研究所(IHES)がある郊外の街で大半を過ごし,パリの中心部には Connes のセミナーと講義に週1回通っただけだった.サンジェルマンデプレ,シテ島などが好きだった.ずっと後の2011年に Henri Poincaré 研究所(IHP)に滞在した時は,パリ中心部のホテルに泊まったのでいろいろとパリの良さを味わうことができた.IHES からパリ中心部へは電車 (RER B) で行くところ,電車の中で楽器を演奏したりする芸人がよくいるのが物珍しかったが,ヨーロッパではよくあることだとあとで知った.

もう一度 Mittag-Leffler 研究所に用事があったので,次の年の4月末に同じ列車を逆にたどって,パリ・ストックホルム間を列車で移動した.今度はもう観光しなくていいかと思ったので,途中下車なしに24時間かけて移動した.その後東大数学科の助手(現在の助教)に就職が決まったため,ストックホルムから東京に戻った.この時の飛行機はモスクワ経由のアエロフロートだった.ここの片道切符が一番安かったからである.(なお私は前年にアメリカからストックホルムに飛んで,最後にこうしてストックホルムから東京に帰って来たので,私の回転数は東周りに1である.その後はいつも往復で飛行機の切符を買った方が安いので,世界一周型の切符を買ったことはなく回転数は不変である.) モスクワで東京行きの飛行機に乗り込む前,日本人の団体ツアー客がいて,ガイドの人が何か説明していた.何の気なしに聞いていると,「座席のダブルブッキングがよくあるが,先に座った方が勝ちである.乗りこんだらすぐに座席について,あとから何を言われても絶対に座席からどかないように」というおそろしいことを言っている.私も気合を入れて座席に直行したが,私の席はダブルブッキングされてはいなかった.こうして私の大学院生としての留学が終わったのだった.

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