「セミナーの準備のしかたについて」について

「セミナーの準備のしかたについて」は私の最も有名なウェブページである.私のことを何も知らない人でもこのページを知っている人がたくさんいるようだ.この背景は次の通りである.

この内容を初めて書いたのは1996年の夏休み前,私が34歳の時である.前年の1995年10月に駒場キャンパスの現在の数理科学研究棟が新たに建って,我々本郷にいた教員たちは駒場に移ってきた.次の年の1996年の修士1年生の院生セミナーで,学生の準備がちゃんとできていないと思ったので,もっとこういう風にきちんと準備してください,というメールを2回に分けてその学生たち向けに出した.その後,せっかく長いものを書いたのだから公開してみたらよいのではと考え,当時は東大の教育用計算センターにあった私のウェブページに載せたものが最初のバージョンである.その頃はインターネットは今よりずっと趣味的なものでウェブページで公開されている情報もごくわずかだった.こんなに多くの人が見るようになるとはまったく思っていなかった.(脱線するが,私が初めてウェブページというものを見たのは1994年のスイス出張の時である.これは素晴らしいものだと思って,ブラウザの Mosaic を入手してその少し後から自分でもやってみるようになった.しかしその一方,これは一部のマニア向けのものだと思い,こんなものを一般の人が使うようになるとはちっとも思っていなかった.私が社会の流れを見通す能力が全然なかったことがよくわかる.) その後何度か細かく書き直してはいるが,内容の中核はずっと同じである.

本やノート,メモなどを見ないでセミナーをするというのは私が独自に考えたことではない.私の指導教員であった,東大の小松彦三郎先生,UCLA の竹崎正道先生がそのようにしていたもので,それがよかったと思っているので私が踏襲しているのだ.このやり方の利点については『新・数学の学び方 』(岩波書店)の私の記事でさらに詳しく書いたのでここでは繰り返さないが,多くのすぐれた点があると考えているので人にも推奨している.ほかに月刊『数学セミナー』やその増刊にあたる『数学ガイダンス』(日本評論社)でもこの「セミナーの準備のしかたについて」を元にした記事が出ており,そちらでもいくつかの補足をした.なおこれまで私のセミナーでは数学力についてはいろいろな学生がいたが,何も見ないで発表するということについてはできなかった人は一人もいない.別にこれは中身を覚えろという意味では全然ない.数学は丸暗記からは最も遠いものだ.順番は必然性があれば自然に決まるし,順番が問題でない場所はどちらを先にやってもよい.計算は黒板の前でその場でやればよいのである.

このページの直接的な目的は,私のセミナーではこのような方針でやっていますよという表明である.そういうことをあらかじめ知らせなかったとしたら,あとからこんなところなら来るんじゃなかったのにと思う人も出てくるであろう.私の学生になる可能性のある人に対して,自分のところの方針を示すことは重要だと考えている.それ以外の人については,当然のことながら私が何か勉強法について強制,指示することはできない.それでも自分がよいと思うやり方を推奨することには意味があるだろうと思ったのでこれを公開している.これがこのページの副次的な目的である.東大数学科,数理科学研究科でも,本をちゃんと読んだ経験が一度もなく,ちゃんと読むとはどういうことか,どうすればちゃんと読めるのか,ということが全然わかっていない学生はたくさんいるので,そういう人を念頭に書いた.別にすべての本や論文をいつもこのように読む必要は全然ないし,私自身,いつもこのように読んでいるわけでもなく,ざっと読んで流れをつかむということももちろん重要だが,それはこういう綿密な読み方を一度身につけてできるようになってからのことである.もちろん記事中にも書いた通り,人によってその人に合ったやり方は異なるので,どのような方法でも自力で数学がちゃんとわかるのであればそれで問題はない.私の学生セミナーでは,最初のうちにきちんと本を読めることがわかれば,あとは特に厳しくする必要はないのでかなり自由にやってもらっている.

最後の「プライベートを無視したブラック企業のような長時間の勉強を強制しているのではないか?」とその答えは比較的最近書き足したものだ.私は数学者になる気のない人も,なりたいけれどなれない人も,東大数学科,数理科学研究科に来たことがその後の人生にプラスになるように願ってセミナー指導をしているつもりである.パワハラ的に学生を委縮させることはあってはいけないのでこの項目を追加した.私の指導はあくまで,数学の準備,理解をきちんとするようにということである.

20年くらい前の私のセミナーだと,全然きちんと本が読めていないまま本番に臨む学生がけっこういた.そういう時は私は「そこはなぜですか」と質問する.そのあとは状況に応じてヒントは言うが,基本的には答えそのものは教えない.わかっていないということが自分でわかっていればいろいろ対応法はあるが,そうでない場合にはまずはわかっていないということを自覚してもらわなければならない.このやり方だと止まってしまったときは本当に進まなくなる.一対一で2時間のセミナーをやって10行も進まないということもよくあった.しかし最近はそういうケースは大きく減った.別に東大数学科,数理科学研究科全体として学生のレベルが上がったという気はしないので,単にそういう学生が私のところには来なくなったのであろう.つまりこのページが有名になったので,それでも大丈夫だと自分で思う学生だけが来るようになったのだと思う.それにもかかわらず,私のところの学生の数が減っていることは全くなく,むしろ私の学生の数は東大数理でも最高レベルである.私個人の都合から言えば,これがこのページを公開したことの最大の効果なのであろう.

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