数学論文出版と業績評価

他の科学分野と同様,数学の学術的成果はジャーナル論文として発表されるのが普通であり,数学者の業績はそれによって評価される.数学でも学術ジャーナルの値段の高騰,レフェリープロセスのあり方,業績評価の基準などにさまざまな問題が生じているが,数学特有の事情もいろいろある.

学術ジャーナルのランキングとして広く知られているものはもちろんインパクトファクターである.他分野では各研究者の論文リストで各論文の載っているジャーナルのインパクトファクターの総和を計算するという話さえ聞くが,数学者はほぼインパクトファクターを無視していると思う.自分の論文が載っているジャーナルのインパクトファクターがどうすれば調べられるのかも知らない数学者がたくさんいるはずだ.これは数学者がジャーナルのランキングに無関心だという意味ではなく,ランキングは数学者間で共有されている格の意識によるのであってインパクトファクターの数値によるのではないという意味である.ただ新しいジャーナル,自分のよく知らないジャーナルについて何らかの数値的格付け情報が知りたいと思う人はいるが,そのような時に数学者が使うのは(インパクトファクターを計算する元になっている) Web of Science ではなく,アメリカ数学会の論文データベース MathSciNet である.このデータベースでも引用回数を数えており,5年インパクトファクターと同様の原理による MCQ (Mathematical Citation Quotient) というものをジャーナルごとに計算している.このデータベースの引用の数え方は Web of Science などとだいたいは同じだが,本に対する引用も数える,preprint や to appear で引用したものもあとから出版論文に対する引用として数える,といった違いがある.当然数学論文しか載っていないのだが,数学者が使うのであればこれはむしろメリットである.また同姓同名の著者をちゃんと区別しているのも長所である.この MCQ をジャーナルの数値指標として使う人はそれなりにいるようだ.だいたいの数値はインパクトファクターと同程度だが,たとえば理論物理のジャーナルからの引用をカウントしていないので,数理物理のジャーナルだと結構違う低めの数字が出たりする.しかしいずれにしろ数学論文の引用回数の相場は低く,ちゃんとしたジャーナルでもインパクトファクターが1.0くらいのことはよくある.一方このような数字は自己引用などで簡単に達成できるので,インパクトファクターあるいはそれに類似の引用回数に基づく数字は,数学のジャーナルの質のあまりよい指標ではない.あとは Google Scholar も誰でも使える無料の論文データベースとしてよく使われている.ジャーナル論文でないものからの引用も幅広くカウントしているので,引用回数などはずっと多く出る傾向がある.arXiv のプレプリントなどからの引用もリアルタイムで数えるので,最新の論文に対する引用カウントには便利である.(特に若い人の場合,Web of Science や MathSciNet で数えるとたいていの人の引用回数はほとんどゼロになってしまう.)

それからよく言われることだが,数学の論文の著者を並べる順番はほぼすべてアルファベット順であり,ファーストオーサーとかラストオーサーとかには何の意味もない.(そもそも共同研究が進んだ現代でも全論文の半分くらいが著者は一人だけであるが.) ジャーナルによってはコレスポンディングオーサーという印がついていることがあるが,単に投稿を担当した人と言う意味で,ほかの著者と何か責任が違うというようなことは一切ない.数学では,若い人が上の人の指示通りに研究して著者になるとか,逆にシニアな人がほとんど具体的な貢献をしていないのに名前を連ねると言ったことはほぼないので,全著者の責任は対等であるということになっている.逆に言えば対等の貢献のある人しか著者にしないということでもある.このため著者の数が3人を超えることはかなり珍しい.私は数学者としては共著論文が多い方で,私の共著者数の最大記録は(私を含めて)5人である.

数学でも業績評価はもちろん重要だが,専門の近い人による主観的評価が主な方法で,数値指標で直接評価することはまれである.私はこれまで海外のものも含め,多くの人事,受賞審査,研究費審査などに関与してきたが,論文本数,引用回数,載っているジャーナルのランキングなどを数値化して順位をつけようとする人には会ったことがない.どの論文がよいか,どの数学者がよいか,については数学者間の評価はかなりよく一致すること,数学論文の引用回数の相場は低いので仲間内の引用で人工的に増やそうとすれば比較的簡単に平均的な数字を上回れること,数学の中でも分野によって標準的な論文数や引用回数はかなり違うといったことが理由だと思う.またつまらない論文で数を稼いでも仕方ないと思っている人が多いので,論文数はそれほど重視されない.ただトータルの引用回数が多かったり,特別に多い論文があればそれは有利になることは多い.人を推薦する際にそのような主張をする人はけっこういるし,私もそういうことを言ったり書いたりしたことはある.また特に格の高いジャーナルに載せることはもちろん有利である.たとえば院生,ポスドクなどが最高峰ジャーナル(Annals of Mathematics など)に論文を一本でも載せれば確実にパーマネントの職は取れると思う.その代わり,載せることは大変難しく,Annals of Mathematics であれば年間合計で世界中から40本くらいしか論文は載らないので若い人が食い込むことは至難である.別のトップジャーナルである Acta Mathematica にいたっては1年で10本くらいしか載らない.なお数学では多額の研究費を取ってくる人が偉いという感覚は皆無であり,研究費獲得歴はほぼ誰も気にしない.

ジャーナルの値段の高騰も最近大きな問題になっている.多くのジャーナルでは,エディターやレフェリーにはお金を払わず,著者からは掲載料としてお金を取り,購読者からも料金を取って,出版社が丸儲けしているという批判が強い.しかし数学では掲載料を払うしきたりはほとんどなく,オープンアクセスにするのでない限りほとんどのジャーナルでは無料である.また論文は投稿とほぼ同時にプレプリントサーバー arXiv で公開することが普通なので,そのバージョンなら誰でも無料で読むことができる.その意味で,数学では論文を出版するのも読むのも無料というモデルはとっくに実現されている.

最近日本の会社が Collatz 予想(3x+1問題とも呼ばれる)に1億2,000万円の賞金を懸けたと話題になっている.こういう初等的に意味がわかる数学,特に数論の未解決問題は,解決したと称するでたらめ論文が後を絶たない.多くのジャーナルではそのような論文の投稿をたくさん受け取って困っている.それに対応して,数論のジャーナル Journal of Number Theory では大予想セクションというものがあり,大予想を解決したと主張する怪しい論文のレフェリーを希望する人はお金を払うことになっている.Fermat の最終定理,Goldbach 予想,双子素数問題などと並び,Collatz 予想もそこに例示されている.料金は1ページ200ドルから始まるので払う方から見ればけっこうな高額である.これがこのような論文に対する一つの対抗策なのであろう.このジャーナルのウェブページには,誤りが発見されなかった場合はお金を返すが,そのようなケースはこれまで一つもない,とも書かれている.これだけ書いてもきっと送ってくる人は後を絶たないのであろう.

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