大学院生の経済的支援

20年位前に「アメリカ大学院(数学)への留学について」を書いた頃には,アメリカの数学科大学院では博士課程の院生のほぼ全員が授業料を免除されていて生活費ももらっているということは日本ではあまり知られていなかったと思う.最近はいろいろな人がこのことを問題にし,日本の大学院生の経済的支援もゆっくりではあるが前進している.まだまだ理想の状態には程遠いがよい方向に向かっていることは間違いないと思う.昔からある学振特別研究員(DC1/2)や国費留学生のほかに東大数理では,数物フロンティア国際卓越大学院 (WINGS-FMSP),変革を駆動する先端物理・数学プログラム (FoPM)があり,ごく最近できた東大全体の取り組みとしてはグリーントランスフォーメーションを先導する高度人材育成 (SPRING GX)がある.いずれも大学院生に十数万〜二十万円/月程度の金額をサポートするものだ.ほかに研究費による RA (Research Assistant) もある.私のところでも多くの院生がこれらのサポートを受けている.

院生に払っているお金は国や仕組みによって,給料と呼んだり,奨学金だったり奨励金だったり,他にも呼び方はあるがとにかく,そもそもなぜ大学院生にお金を払うのであろうか.経済的余裕のない人にも勉強の機会を与えることが社会全体にとって利益であるということはもちろん一つの理由だが,もっと大きな理由は大学院生(の多く)は研究という大学の業務活動を行っているからである.大学院生が書いた論文もその大学の成果であり,論文数や引用数のカウントに使われるのであって,この意味で大学の基幹業務のアウトプットを担当しているのだ.このことは学部学生までと大きく違う点である.そもそも研究業界の就職形態が,先にアウトプットを求められるという点でほかの企業などと大きく違っている.たとえば新聞記者として入社するためにあらかじめ商業メディアに署名入り記事を何本も書かなくてはいけないなどということはないであろう.しかし大学ではこれに相当することが要求されているのである.大学の業務を行っている以上,お金を払うのは本来当然のことである.

月に十数万〜二十万円という金額は学振特別研究員(DC1/2)が二十万円であることに影響されて決まっているのだと思う.東京で一人暮らしして税金や社会保障も払うには心もとない金額である.一方自宅から通学している人にとっては十分な金額であろう.世界で勝負する研究大学として,親元に住んでいれば十分に暮らせるなどという制度設計はおかしいと思うが,現実には東大で実家から通っている人はかなりいる.住宅手当のような形で自宅に住んでいる人と家賃を払っている人とで差をつける方が合理的ではないかと思うが,簡単ではないのかもしれない.

学振特別研究員(DC1/2)は博士課程の人が対象で,修士課程在籍者にはもらえない.一方上記の新しいプログラムの一部は修士課程からもらえるようになっており,これはたいへん良いことである.日本の修士課程の大学院生にはいろいろなケースがあり,大学の研究活動に従事しているとは言い難い人たちもかなりいるのでどのように扱うのがベストなのかは簡単ではない.政府のさまざまな政策でも博士課程と修士課程で別の扱いになっていることが多い.ヨーロッパや中国でも私が数学で知っている限りでは,修士と博士の違いは日本に近いと思うのだが,世界で一番勢力の強いアメリカがそれとは大きく違う仕組みを取っているため制度設計は難しい.アメリカでは研究指向の人は学部卒業後すぐに博士課程に入るのであって,それを修了するのに平均で5年前後かかる.つまり日本の修士と博士が一貫になったようなものである.したがって博士課程に入るのに何の研究実績も必要ないし,Lebesgue 積分も Galois 理論も知らなくても問題なく博士課程に入れるのだ.博士課程の学生の最初のうちはただ基礎的な内容を勉強しているだけであって,研究活動はしていない.

それでもアメリカで博士課程の院生がお金をもらえるのは TA (Teaching Assitant) として学部学生に教えているからである.この場合,大学の業務を行っているということはさらに明確である.そもそも数学では教員まで含めて世界中で,給料の発生する源泉は研究より教育というのが普通である.たとえば大学院生が教授の研究の手伝いをして教授の研究費から給料をもらう RA は一応あるが,アメリカでもあまり普通ではない.私の知っている限り大半の欧米の数学の院生は,TA をすることによって授業料が免除になり,生活費を得ている.お金の出どころは教授の研究費ではなく,数学科あるいは大学本部である.したがって大学院生がまだ基礎的な内容を勉強しているだけでもよいのである.TA は演習の補助などだけではなく実際に黒板の前で授業をする.授業負担の量は大学や個人によってかなり違うがけっこうな量を教えているケースは多い.これに比べると最初に書いた東大の各種プログラムが,研究以外の仕事なしにお金をくれるのは優れた仕組みだとも言える.日本の大学数学教育の教える人手は十分とは言い難いので,今よりもう少し院生に教育負担をつけてもっとお金を払うようにするのが一番よいと思うのだが,新しい仕組みを作るのは簡単ではないのであろう.これからさらに良い方向に改善していくことを願っているところだ.

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