南アフリカ犯罪都市

2011年,南アフリカ・ダーバンのクワズール・ナタール大学で開かれたコンファレンスに出席した.知り合いの数理物理のドイツ人がこの大学にいるのだ.南アフリカ航空の便に初めて乗って,成田・香港・ヨハネスブルグ・ダーバンと移動した.現在は南アフリカ航空の日本から香港に行く便はなくなってしまっているようだ.ヨハネスブルグ・ダーバン間は1時間くらいの便なのだが,空から大地を見ると鮮やかな原色の森や湖が広がっておりとてもきれいだと思った.ダーバンは南アフリカの東海岸にある第2の都市であり,リゾート地でもある.

南アフリカといえば何と言っても凶悪犯罪のイメージが強い.まずヨハネスブルグ空港に着いたときかなり緊張した.空港で入国審査の後,制服の大きな人が現れて飛行機の切符を見せろと言われた.見せるとお前はこっちだ,ついて来いと言われてどんどん歩いていく.この人は怪しい人ではないのだろうかと心配になったが,空港の中でもあることだし,とにかくついて行ったところ,無事搭乗口に着いて一安心だった.

ダーバンに飛行機で着いてタクシーでホテルに行った.ホテルは小さくて上品な感じだったが,受付にあった地元の新聞を見ると「市の中心で暴動」という巨大な活字が一面トップで,ビール瓶のようなものを道で投げている人の大きな写真が一面の半分くらいを占めていた.何かすごいところに来てしまったのではないかと思ったが,次の日の一面トップは「私はレイプされた」という巨大活字と巨大写真で,どうも毎日こういう記事を載せている新聞のようだった.なぜホテルではこの新聞を取っているのかと思ったが,これが地元のメインの新聞なのかもしれない.なお二三日後に車で暴動のあったエリアを通ったが,そこら中に投げられた瓶やごみが散乱していてひどい惨状だった.

ホテルは街の中にあったが,大学は少し離れた丘の上にあり,みんなでミニバンに乗って大学に行った.コンファレンスといっても参加者は10人くらいしかいなかったのだ.大学のキャンパスには高い木がたくさんあり,そこにサルの集団がいついていた.キャンパスを歩いているとサルの鳴き声がかなり響いていた.キャンパスの学生食堂のようなところで昼ご飯を食べた.大学名のクワズール・ナタールは州の名前でもあり,ナタールとはクリスマスのことだが,ヴァスコ・ダ・ガマがクリスマスに立ち寄ったからこの名前がついているということである.

晩はまたみんなでホテルに帰って来て,近所のレストランに歩いて行って夕食を食べた.近所とはいえ夜に出歩いて大丈夫なのだろうかと不安を感じたが,オーガナイザーの先生筋に当たるドイツ人が我々の行動を仕切っており,彼は全く怖がっていないようだった.なおこのドイツ人はリオデジャネイロで夜中にコパカバーナ海岸に行ったのと同じ人である.単に向こう見ずなのか,ちゃんとした安全の判断の根拠があるのかはよくわからない.レストランではワニやダチョウを食べた.どちらも普通の鶏肉のような味で,特に変わったことはなかった.ほかにいろいろ南アフリカ独自の料理があるはずなのだが,我々はあまりそういったものは食べなかったように思う.最近は日本でもよくあるルイボスティーは南アフリカの産物なのでよく見かけた.我々は毎日かなり夜遅くまで食べていて,終わった後はまたけっこうな距離をみんなで歩いてホテルに戻った.

週末に遠足があり,サファリに連れて行ってくれた.サファリパークはとても広かった.小さい車にみんなで乗って回り,象やキリン,サイ,シマウマなどがたくさんいたが,特に珍しい動物は見なかった.ライオンもいなかった.このずっと後で,中国のサファリのようなところで虎が我々のバスの周りに群がってくるのを見たが,そのほうがずっと迫力があった.なお8月だったので現地は冬のはずだが,特に寒いことはなかった.

南アフリカの言語と言えば英語のほかにアフリカーンスが思い浮かぶが,ダーバンのあたりでメジャーなのはズールー語のようだ.しかし私はホテル,レストラン,近所の売店などを回っただけだったので,当然こういうところでは英語がよく通じ,それ以外の言語には接しなかった.街の中で書かれているものも大半は英語だったと思う.

2021年7月,前大統領が汚職疑惑に端を発して収監され,それに抗議する暴動,略奪が全土で起こった.ダーバンはその中心地で多くの逮捕者や死者が出た.ショッピングモールでの大規模な略奪や放火された倉庫などの様子が日本のテレビでも見られたが,あらためて怖いところだと思った.久しぶりにダーバンの名前を見るのがこういう理由だったのは残念である.現地の人々には申し訳ないが,犯罪都市のイメージはなかなかぬぐうことのできないところだ.

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