『数学セミナー』,『現代数学』,『数理科学』

日本には大学レベル,さらにはそれ以上の数学を扱う一般向け月刊誌が,『数学セミナー』,『現代数学』,『数理科学』と3種類もある.ずっと市場規模が大きいはずの英語圏でも対応するような雑誌はなく,強いて言えば Springer 社の"The Mathematical Intelligencer" かもしれないが,多くの記事は読み物的な内容だし,月刊ではなく年4回しか刊行されていない.これを考えると日本で全国の普通の本屋で売っているような数学関係月刊誌がこんなにあるのは驚異的である.この3誌はすべて日本数学会出版賞を受賞しているが,日本の数学振興に大きく貢献していると思う.

『数学セミナー』は中学1年生の夏頃から読み始めた.当時はネットもなく,進んだ数学に触れる方法はほかになかったのですべての記事をとても熱心になめるように読んだ.どの専門書を読むべきかという情報の多くもこの雑誌から得た.同誌の「エレガントな解答をもとむ」は,毎月問題を出して読者の解答を募るコーナーだが,中学1年生から2年生にかけて熱心にやっていたのをよく覚えている.初めて問題が解けたのは中学1年生の冬で,正解者の欄に「中学1年生!」とカッコつきで載った.この頃の「エレガントな解答をもとむ」に駒場東邦中学高校数学研究会の解答がよく載っており,とても難しい問題でもどんどん解いていて,組織的にがんばっているのだなと思っていたが,東大数学科に来てから,これは2年上の古田幹雄氏(現東大数理教授)が一人でやっていたのだと知った.当時の「エレガントな解答をもとむ」を今図書館で見るとほかにも現在数学者としてよく知られている人の名前が何人も見つけられる.数学に関係するいろいろな情報もこの頃の同誌から得たものが多い.たとえばフィールズ賞がどのようなものかについてもそうだし,数学オリンピックの存在も同誌で知った.当時日本は数学オリンピックに参加していなかったので残念に思っていた.また荒木不二洋先生が作用素環の記事を当時よく書いていたので,作用素環というものがあるということも中学1年生か2年生の時から知っていた.『数学セミナー』はいろいろな別冊,増刊も出しており,これらも熱心に全部買って読んでいた.たとえば『デカルトの精神と代数幾何』(飯高茂,上野健爾,浪川幸彦共著)は当時このような増刊として発行されて,のちに増補版が広く読まれているものである.私が数学者になってからは『数学セミナー』に記事を書いたのは10回である.巻頭の coffee break も2回書いた.「エレガントな解答をもとむ」は一度出題を頼まれたのだがスケジュールが合わず,出題することはできなかった.

『現代数学』は私が中学1年生の冬頃に読み始めた頃はこの誌名だったが,その後まもなく『BASIC 数学』という名前に変わった.この名前でしばらく続いた後,『理系への数学』への変更を経て,今は元と同じ『現代数学』という名前である.出版社の名前はずっと現代数学社のままだ.私が中学生の頃は森毅氏の記事がよく出ていたことが記憶にある.山下純一氏も当時からよく書いていた.現代数学社で出していた関連する単行本もよく読んだ.私は同誌に記事を書いたことはないが,2016年7月号の「輝数遇数」で私を取り上げてもらっている.この「輝数遇数」の連載は毎号数学者一人を取り上げるものだが,私の知り合いが多く登場しており,2020年にはこの連載をまとめたものが同社から単行本として出版された.この単行本は PART I ということなのでこれからも続きが予定されているのであろう.2020年の同誌では私の元学生の窪田陽介君も取り上げられた.この連載の当初は私の世代,さらにはもっと年上の人がよく取り上げられていたが,最近は若手もだいぶ取り上げられている.

『数理科学』は一番関係が深い雑誌で私は20回以上記事を書いたことがある.出版元のサイエンス社の様々な企画とも私は関係している.同誌は毎回特集テーマがあり,その取りまとめの責任者が巻頭の短い記事を担当することになっているが,それも5回やったことがある.私が『数学セミナー』や『現代数学』を読み始めた40年以上前はこの雑誌はあまり私の読むべきものと思っていなかった.その頃の特集テーマを見てみると,「言語」,「選挙」などがあり,あまり数学や理論物理という感じではない.最近の特集テーマが,「保型形式を考える」や「冷却原子で探る量子物理の最前線」であるのと比べると大きな違いだ.現在は数学と理論物理の様々な話題をカバーしており,しばしば高度な特集テーマが設定されている.実際同誌には最新のプレプリントなどを引用した極めて難しい記事がよくあり,これを日本語で理解できる人は全部で5人いるだろうかと思うような記事でも平気で載っている.月によって特集テーマの難易度に差があるが,別に難しいから売れないといったことはないようである.同誌には私が毎年主催している Summer School 数理物理の案内や作用素環賞の報告も載せてもらっており,たいへんありがたいことである.

これらの月刊誌に限らず,日本では大学院レベルの専門書が多く日本語で出版されている.ある専門書は1,500部売れたと聞いたが,その本を理解できる人はどう考えても日本にせいぜい数十人のはずなので驚くべき売り上げである.ある程度の部数は図書館が買うのだが,とてもそれだけでは説明がつかない.これについて,数理科学研究者,学生のほかに,医師,エンジニアなどの仕事をしている数学ファンがかなりいて,そういう人たちに売れるので難しくてもよいのだと聞いたことがある.これがどのくらい実態に即しているのか判断できるデータを私は持っていないが,上に書いた『数理科学』の難しさなどと合わせて,それなりにもっともらしい気がする.さまざまな自然科学系月刊誌が休刊になる中,こういう数学書のマーケットが日本で維持されているのは大変すばらしいことだと思うので,ぜひこれからも続いて行ってほしいところである.

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