イラン訪問記

私は2010年10月にテヘランの基礎科学研究所を訪問した.イランに行ったのはこの1回だけなのだが,印象深い出張だったのでこれはその雑多な記録である.

イランは核開発問題などで経済制裁を受けており,そのためクレジットカード,トラベラーズチェックなどが使えないと出発前に聞いた.到着時に空港で現地通貨に替えたのだが,現金しか使えないというのはかなり経済的に孤立しているように感じた.しかし街中は西側ブランド品にあふれており,Cartier, Louis Vuitton などのブランド品の店がたくさんあって繁栄しているように見えた.またドルを替える両替商もそこら中にたくさんあって,ドルから現地通貨もその逆も全く自由にできており,経済制裁の実感というのはあまりわかなかった.

研究所で4回講演したのだが,参加者の半分は女性だった.唯一の女性フィールズ賞受賞者 Mirzakhani もイラン人だったし,女性の数学学生が多くいるのかもしれない.ただしこの女性たちはみんな真っ黒な服で全身を覆っており顔の一部しか見えなかった.またイスラム圏の休日は金曜日なので,土曜にも日曜にも私の講演はあった.

イランの言葉はペルシア語で文字はアラビア文字にごく近いが,数字も我々とは異なっている.(たとえばここでペルシア数字が見られる.) 数学者として数字が読めないのはしゃくにさわるし,実際にもいろいろ不便なのでちょっとがんばってペルシア数字を覚えた.そういえばビザの年号もこの数字で書いてあるので覚えた後で読んでみると,年号自体もペルシア暦なので西暦とは違っているのだった.いろいろなところに数字は書かれているので,それが読めると少しだけ現地に溶け込んだような気がした.

現地の人たちと一緒に行動して街に出た.主要な交通機関はタクシーだと言われたのだが,乗ったのは全く普通の乗用車だった.乗るときに運転者と行き先と値段を交渉するのだ.さらに途中でほかの客も相乗りしてきたりする.これをタクシーと呼ぶことに違和感を覚えたが,その後本当のタクシーに乗った時もメーターは作動しておらず,行先と値段は個別交渉で,途中からほかの客も乗ってきたりするので全く違いはないことがわかった.この時はこんな仕組みでよいのかと思ったのだが,Uber も IT 化されているだけでこれと大して変わりないのかもしれない.あるとき乗った車の運転手は私が日本から来たというと,テレビドラマの「おしん」がいかに素晴らしいかを語った後,私の料金を無料にしてくれたのだった.

だいぶ前に亡くなったホメイニ師が今も偉大な指導者とされており,いたるところに巨大な肖像があった.テヘラン空港もホメイニ師の名前がついている.現在の政治家については,テレビでは我が国の偉大な指導者のありがたいお話,みたいなことばかり毎日言っているようだった.しかし研究所の人たちはかなり大っぴらに,大統領選では不正があったとか,政治家は全くどうしようもないとか言っており,こんな話を英語で外のレストランでして大丈夫なんだろうかと心配になった.

街中でいろいろな中東料理を食べたがバラエティーがあっておいしかった.レストランのそばに水タバコ(写真はこちら)をみんなが吸っている店がよくあった.何か怪しい薬を吸っているように見えてちょっと怖かったが,別に怖いものではないようだ.アメリカの人にイランで水タバコを見て珍しかったと言ったところ,アメリカでもよくある,お前は見たことがないのかと言われて,見た記憶はないと思ったのだが,その後気を付けて見ていると,カリフォルニアにも結構あることを知った.

私は海外出張の際にいつも海外旅行保険に入っているが,イランはしょっちゅう対象外の国になっている.この出張の際にはイランでも保険に入れたのだが,私がいつも入っている保険のウェブページを今見ると,イランは北朝鮮などと並んで対象外で入れないようだ.特に危ない国の一つとされているのであろう.私が帰って来たあとかなり大規模な反政府暴動なども起きていたが,私が実際に行っている間は特に何も危険を感じなかった.

日本から持って行ったノートパソコンは AC アダプタでつないでいたのだが,研究所の机の上でコードがプシュッという音とともに火を噴いて焼き切れてしまった.こういうときのために私はいつも AC アダプタを二つ持って出張しているので大丈夫だったが,イランでノートパソコンが充電できなくなったらきわめて不便なことになるところだった.AC アダプタを二つ持っていて助かったと思ったのは二度目であった.(もう一回は日本でコードが突然切れたのだった.) インターネットは規制があるとも聞いたが,私が使っていた限りではスピードが遅いとか,つながらないサイトがあるとかいうことはなかった.

帰り際に向こうの人がイランに来た記念だからと言ってコーランとハディース(ムハンマドの言行録)をくれた.両方ともアラビア語と英訳が組になっておりとても分厚い.(正確に言うとアラビア語だけが正典なので,英語は翻訳したのではなく注釈だという扱いらしい.) 重くて持って帰るのも大変だったがちゃんと持って帰って来た.残念ながら読んではいない.

飛行機はウィーン経由で行ったのだが行きも帰りも発着は深夜だった.いい時間帯は先進国が取ってしまうのではと思った.行きも帰りも研究所の人が送り迎えしてくれた.帰りはウィーン空港で7時間待ちだったので電車に乗って街の中心部まで行ってウィーンを見物することもできた.

2011年3月1日以降にイランに入国した人は,アメリカにビザなし入国ができなくなるという規制ができた.私は2010年だったのでギリギリセーフなのだが,一度アメリカ入国の際に私のパスポートにあるイランビザが問題になったことがある.私は時期がセーフであることを知っていたのでそう主張したのだが,上に書いたようにビザの年号はペルシア暦がペルシア数字で書いてあるのでちょっと見てもいつなのかわからない.入国審査官は待てと言って私のパスポートをどこかに持っていき,何かいろいろ調べていたようだが,結局O.K.だということになって無事入国できたのだった.なおイスラエルはイランの不倶戴天の敵なので,イスラエルの入国スタンプがパスポートに捺されているとイランに入国できないという話があり,私は2004年にイスラエルに入国しているのだが,パスポートはちょうど更新したところだったので,こちらも問題なかった.

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