数学者と英語力

多くの学術分野の研究者と同様,数学者として生きていくには英語力は必須である.私はアメリカに,大学院生,ポスドク研究員,ビジターとして通算5年住んでいた.そのほかに出張で欧米に滞在していた期間も全部通算すれば5年くらいにはなると思うので,日本人の平均的科学者よりは英語はできる.というか,この経歴で話せなかったらただのバカである.しかし欧米で長期間過ごした日本人科学者の中で比べれば,特にうまい方ではない.基本的には自分の用が足りるようになったところで,これ以上向上しなければならないという強い動機が失われるからだ.私は昔,アメリカの大学で10年も20年も教えているような外国人は,アメリカ人と変わらないような英語を話すものだと思っていたが大きな間違いだった.

数学そのものについて講演したり議論したりする分には私はまったく不自由はないし,明日からでもアメリカの大学で教授ができると思うが,社会的なことについて話したり,単に雑談したりすることも当然あるし,いろいろな冗談を言ってくる人もいる.そういう時に向こうがネイティブスピーカーだと,どちらの方向にも,ああ,話がちゃんと通じてないな,と思うことはけっこうある.向こうがヨーロッパ大陸人の時が一番私の英語力と釣り合っていて話がよく通じている気がする.アジア人は英語力がピンからキリまで幅広い.

英語力が弱いと国際的に業績はn割引で評価される.nの値はもちろん場合によるが簡単に5くらいになる.英語力が低いために,論文が読まれない,引用されない,研究集会に呼ばれないといったケースはとてもたくさんある.東大生でも,"He speak English." とか "I have book." とか "I didn't went there." といったレベルの文章を書いたり話したりする人はたくさんいる.またジャーナルのエディターをしていると,本当に何を言いたいのかわからない英文を実にたくさん見る.9割引きになっても大丈夫なくらい圧倒的な業績を挙げればよいのだ,という道を覚悟のうえで行くのなら止めはしないが,そして実際にそういうことを達成できている例は少数ながらあるが,通常は(特に若いうちならば)英語力を上げる方がずっと簡単だと思う.国際的な評価は(たとえば共同研究や種々の交流のフィードバックを通じて)次の研究に跳ね返って来るので,評価など気にせず研究に専念すればよいというのもなかなか難しい.なお他の学術分野では論文を英文校正に出すという話をよく聞くのだが,数学でそうしたという話は私は一度しか聞いたことがない.数学の英語は簡単だから不要だ,数学者の研究費は額が小さくそんな予算はない,校正業者が数学特有の言い回しに慣れていない,といったところが理由だろうと思うが,金を払って校正してもらえ,と言いたくなる論文はたくさんある.

数学では研究だけしていればよいというポストはほとんどないので,数学者の仕事には教えるということがついて回る.海外の大学の場合現地の言葉(あるいは英語)で教えられるかどうかが問題になる.前に日本人若手数学者のアメリカの大学への推薦状を書いたことがあるが,その大学の知り合いから,こいつは英語でちゃんと教えられるか,と直接確認された.まあ大丈夫だと思って軽く,O.K.だよと言ったら,そんなに簡単に言うな,こいつの英語が不十分だった場合,自分は監督して向上させる責任がある,それでもだめだった場合,自分は今後数年間新任教員を推薦する資格を失う,さらにもっとひどかった場合,自分はこいつの授業を肩代わりして教えなくてはいけないのだ,と言われた.本当にそれでも大丈夫だと言えるか,と確認されてうっとつまったのであった.なおその人はそことは別のアメリカの大学にちゃんと採用されて無事英語で教えていた.

昔留学したころ,私の親の世代の教授から,最近の学生の英会話力は自分たちの頃よりずっと向上していて立派なものだ,学生の数学力はとてもこんなに向上していない,と言われた.その時から40年近くたち,若者の英会話力に関しては(「ずっと」かどうかはともかく)さらに向上しているのでは,とも思う.ただしそうは言っても個人差はだいぶ大きいところである.東大数理の院生だとおおざっぱに言って,問題なく用が足りる人,用が足りなくて実害が出ている人,それにも全然達しない人が1/3ずつくらいだと思う.私の時は大学を出るまで一度もネイティブスピーカーによる英語の授業を受けたことはなかったし,またリスニングの試験を初めて受けたのは留学のために TOEFL を受験した時である.当然というか,歴然とリスニングのセクションの点数が悪かった.ただそれでも当時留学に必要と言われた550点は1回でクリアしたので何とかなった.今の方式に換算すると80点ちょっとということで今ではこれでは足りないこともよくあるようだが,試験の内容自体がだいぶ違うし,正確な換算は困難であろう.なおその頃のアメリカ史専攻の日本人留学生の友人は TOEFL は楽に満点だったと言っていて,さすがにアメリカ史が専門の人は違うなと思ったものである.この人はアメリカで TA をして,アメリカ人学生のレポートを,論旨不鮮明とかいってどんどん添削していた.

ほかの外国語の重要性は大幅に下がるが,数学ではフランス語は今でもそこそこ重要である.少し昔の超重要文献でフランス語のものはかなりある.特に代数分野で顕著である.さらに今でもフランス語で論文を書く人たちはそれなりにいる.(物理ではそんなことはないと聞いたので,これは数学だけの事情かもしれない.) 作用素環論ではそこまでではないが,それでも Connes の初期の重要論文にはフランス語のものがいくつかある.私もフランス語の論文をレフェリーしたり,フランス語で推薦状を書いたりしたことはある.私はフランス語は教養学部の第2外国語で習ったが,実用的にも教養的にも大変有益だったと思う.東大の教養学部で第2外国語を必修からはずす話が出たことがあるが,私を含めて数学科の人はみんな反対したので通らなかった.(今は必修なのは1年間だが私の頃は2年間だった.) 今ではヨーロッパ言語間の機械翻訳はかなり精度が高いので,英語ができればそれで足りることが多いかもしれないが.

英語に限らず,数学者の中にはときどきものすごい語学の達人がいる.私の知り合いの中での最高峰は Ocneanu である.彼はルーマニア人で,英独仏伊西語くらいは当然として,もっとマイナーなデンマーク語なども話すし,さらに日本語,中国語も話す.東大に来た時は黒板にたくさん日本語で書いていたし,奈良のコンファレンスで講演した時は手書きの OHP にその場で「古人の跡を求めず,古人の求めたる所を求めよ」という松尾芭蕉の言葉を書いて見せた.彼によれば勉強法は,自分の知っている言葉と知らない言葉の対訳例文がたくさんあればよいのだという.パターンを認識し,規則を発見するのは数学者の仕事なのだから,文法書など必要としないのだと豪語していた.さすがにここまでの人はなかなか見たことがない.もっとも彼のイタリア語はこの方式でダンテを読んで身につけたものなので,イタリア人によると古文のように感じられるそうだが.

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