科学研究費補助金 基盤研究 (B)
「無限次元リー代数によるリーマン面の位相幾何学的研究」
課題番号: 24340010, 研究期間: 平成 24 - 26 年度, 代表者: 河澄響矢 (東大数理).

この研究の目指すもの:

<はじめに>
 リー代数というものは元来は対称性を記述する言語として研究されてきました。しかし、リー代数そのものが様々な場所に現れることが分かって来ています。 また、リーマン面とは向きのついた曲面のことです。位相幾何学=トポロジーは図形の最も基本的な(つまり粗雑な)構造に着目して研究する幾何学です。
 リーマン面をトポロジーの立場から分類する仕事は19世紀にはじまり20世紀初頭には完成してしまっています。この仕事が20世紀の幾何学全体の重要な 源になりました。しかし今更リーマン面をトポロジーで研究する必要があるのでしょうか? どんな数学的対象でも、それ一つだけを見ていては真実は明らかに ならないことが多いものです。他の対象との相互関係の中で深い性質が明らかになります。一つのリーマン面のトポロジーを見るだけでは見えて来ないものが、 曲面の上に上部構造を載せ、その上部構造をパラメーターをつけて変形させることによって見えてきます。これは精密な幾何学の言葉で言えばモジュライ空間を 考えることに対応しますし、トポロジーの言葉で言えばリーマン面の位相的自己同型群つまり写像類群を考えることに対応します。そして写像類群を考えること で3次元や4次元の図形とも関係が出てきます。
 リーマン面のモジュライ空間および写像類群の研究は、19世紀にさかのぼる歴史を持っていますが、20世紀の1980年前後に長足の進歩を遂げました。 D. マンフォード、W. サーストン、J. ハーラー、D. ジョンソンなどの人たちが、それぞれの方法で進歩の先駆けとなりました。

<目指すもの:その1:ジョンソン準同型>
 数学を辞めてしまった D. ジョンソンの仕事を受け継いで発展させたのが我が国の森田茂之です。現在ジョンソン・森田理論と呼ばれています。この理論では二つの無限次元リー代数が現 れ、一方が他方に埋め込まれています。この埋め込みの写像はジョンソン準同型と呼ばれています。この理論の中心的な問題は、ジョンソン準同型の像つまりイ メージ を完全に記述するという問題です。日本人によるものも含めいろいろな重要な仕事はありますが 2012 年 4 月現在未解決です。他方、W. ゴールドマンはリーマン面の平坦束のモジュライ空間という全く別の文脈の研究の中で、曲面上の曲線が無限次元リー代数を定めることを発見しました。のちに V. トゥラエフはこのリー代数にさらに詳しくリー双代数という構造が入ることを示しています。現在このリー代数はゴールドマン・トゥラエフ・リー双代数とよば れています。久野雄介と私河澄 (文献 [5][6]) は共同研究で、このゴールドマン・トゥラエフ・リー双代数がジョンソン準同型の背後にあることを発見しました。全く別の文脈で存在していた二つのものが一 つに結びついた訳です。この発見の副産物としてジョンソン準同型の像を評価する新しい方法が得られました。この研究の延長線上にジョンソン準同型の像を完 全に記述することができるのではないか?と期待しています。期待するに足る状況証拠もあります。この研究の第一の目的は、この期待を現実のものとすること です。

<目指すもの:その2:モジュライ空間のコホモロジー>
一般に空間のコホモロジーとは、その空間に開いた「穴」の個数を記述するベクトル空間のことです。「穴」にも次元があります。n 次元の「穴」に対応するベクトル空間を n 次元コホモロジー群といい、その元を次数 n のコホモロジー類とよびます。
さて、リーマン面のモジュライ空間のコホモロジーの研究は、さきに述べた J. ハーラー の一連の仕事によって大きな進歩を遂げました。コホモロジーの次数に対して、リーマン面の複雑さつまり種数が充分大きければそのコホモロジー群は種数によ らないというのがハーラーの安定性定理と呼ばれるものです。この種数によらない部分を安定コホモロジー群とよびます。安定コホモロジー群は 2002 年に I. マッツェンと M. ヴァイスによって決定されました。問題は安定とは限らない部分です。M. コンツェヴィチは、リーマン面について(双曲的であり得る)すべての種数と標点を動かしてモジュライ空間のコホモロジーの直和をとったものが、シンプレク ティック導分のリー代数というもので記述されることを発見しました。他方、久野雄介と私河澄 (文献 [4]) は共同研究で、(後述する)シンプレクティック展開というものを使うと、先に述べたゴールドマン・トゥラエフ・リー双代数を、このシンプレクティック導分 のリー代数に稠密に埋め込むことができることを発見しました。ただし、この埋め込みは、リー双代数の構造のうち括弧積は保存しますが、余括弧積は保存しま せん。この研究で目指すものは、我々が発見した埋め込みを通して、ゴールドマン・トゥラエフ・リー双代数の知見をモジュライ空間のコホモロジーに活用する ことです。

<目指すもの:その3:マグナス展開>
閉リーマン面の基本群はいわゆる曲面群とよばれる群です。これは少し難しいところがあるのでリーマン面に穴を開けることにします。すると基本群は自由群と よばれる最も基本的な群になります。自由群を研究する手法の一つとして(古典的)マグナス展開というものがあります。北野晃朗氏はこの(古典的)マグナス 展開を使ってその1で述べたジョンソン準同型の記述を与えました。私河澄 (文献 [1]) は、北野氏の記述をもとにして、マグナス展開を一般化してジョンソン準同型を記述できる最小限度まで条件を絞り込むことを提唱しました。こうして一般化さ れたものを単にマグナス展開とよぶことにします。マグナス展開には沢山の種類があり、「天与のマグナス展開」というようなものは存在しません。「『天与の マグナス展開』が存在しないからこそジョンソン準同型が存在する。」というのが私が文献 [1] で証明したことです。しかし、曲面に付加的な構造を付け加えれば、その付加的な構造が一つのマグナス展開を定めるということはあり得ます。その例として リーマン面の複素構造があります。文献 [2] では、複素構造から自動的に定義されるマグナス展開(これを調和的マグナス展開と呼びます。)を構成し、これをタイヒミュラー空間の上で変化させたときの 振舞いを記述しました。その後、G. マシュヨーがトポロジーの立場からはマグナス展開に条件を追加するべきだということを提唱しました。マシュヨーの条件をみたすマグナス展開をシンプレク ティック展開と言います。調和的マグナス展開もシンプレクティック展開です。マシュヨーは3次元多様体の LMO 函手を使ってシンプレクティック展開を構成しています。その構成にはドリンフェルト結合子というものが必要になります。マシュヨーの LMO 展開と私の調和的マグナス展開との関係は、いまのところ全く不明です。本研究の3番目の目標はこれらの関係を明らかにすることです。もちろん私は調和的マ グナス展開から出発して考えて行きたいと思っています。リーマン面の退化というものを介在させることで両者が繋がることを期待しています。

<目指すもの:その4:その他>
もちろんリーマン面それ自身、写像類群およびリーマン面のモジュライ空間の位相について直接的な研究も必要です。たとえばその1に関連して、閉曲線の単純 性の特徴付けという2次元トポロジーの古典的な問題に真向かいになる必要に迫られています。その3に関連して、マグナス展開を一般化した動機のひとつであ る、写像類群のねじれ係数コホモロジーの研究も続行する必要があります。


文献:
[1] N. Kawazumi, Cohomological aspects of Magnus expansions,
preprint: UTMS 2005-18 = arXiv: math.GT/0505497(2005)
[2] N. Kawazumi, Harmonic Magnus Expansion on the Universal Family of Riemann Surfaces,
preprint: arXiv: math.GT/0603158(2006)
[3] A. J. Bene, N. Kawazumi and R. C. Penner, Canonical lifts of the Johnson homomorphisms to the Torelli groupoid,
Adv. Math.,  221(2009) 627--659. (preprint arXiv: 0707.2984)
[4] N. Kawazumi and Y. Kuno, The logarithms of Dehn twists,
preprint: arXiv: 1008.5017 (2010), UTMS preprint: 2010–12
[5] N. Kawazumi and Y. Kuno, Groupoid-theoretical methods in the mapping class groups of surfaces, preprint: arXiv: 1109.6479 (2011), UTMS preprint: 2011–28
[6] N. Kawazumi and Y. Kuno, Intersections of curves on surfaces and their applications to mapping class groups, preprint: arXiv: 1112.3481 (2011)


最終更新日: H24.4.16

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