四谷大塚カンニング同盟

私の中学受験生の頃の話である.最初に書いておくと,私が子供の頃試験が得意だった話が出てくるが,それは現在の仕事である数学の研究とは別に関係はない.

これは1974年の話である.いきなり脱線するが,1974年というのは『ちびまる子ちゃん』の設定の年である.まるちゃんが見ている紅白歌合戦は1974年のものだ.あのマンガを見ると,まるちゃんのお姉さんは私と同じ年であることがわかる.それはともかく,当時の東京の中学受験の世界では,進学教室と呼ばれる,日曜日に模擬試験をやる塾が主流であった.四谷大塚進学教室(以下,四谷大塚)と日本進学教室(以下,日進)の二つがメジャーだった.日曜日の午前または午後に試験をやるだけだったので二つの塾を掛け持ちすることができ,この頃の多くの中学受験生がこの二つの塾の両方に通っていた.当時の有名中学では,この片方だけで合格者の8割くらいを占めていた.私の入学した麻布中学では,どちらの塾にも行っていなかった人は中学1年生300人中4人だけだったと聞いた.これらの塾では社会では鎌倉時代といったように毎週試験範囲が決まっており,受験生はこの範囲の準備をしてきて試験を受け,成績が発表されるという仕組みだった.解説の授業は試験の後にわずかにあるだけで,平日の授業はなかった.当時は日進は少し落ち目で四谷大塚に勢いがあり,日進はその後まもなく消滅したと聞いている.四谷大塚は今でもあるが,中学受験のトップ層が行くものではなくなってしまっているようだ.

科目は算数,国語,理科,社会だが,算数,国語は何もしなくても毎回ほぼ満点だったので,私はほとんどすべての努力を理科,社会に費やしていた.この2科目は暗記すべきことがたくさんあったからだ.私はとても熱心に暗記に励んでいた.もし野球なり将棋なりが得意で大会で勝ちまくれる小学生がいたら,その子は喜んで練習するであろう.私もそれと同じようにゲームとして熱中していたのだ.(こんなにいろいろなことを暗記したのは人生でこの一度だけである.) 私と,A君,B君の3人が特に成績がよく,毎週たいていこの3人の誰かが1番であった.最初に1番を出したときはやったと思ったが,我々はもうそれに飽きてしまっていて,もっと強い刺激を求めていた.そこで私とA君が目指したのがパーフェクト(全科目満点)であった.我々は常時9割5分以上の点数を取っていたので十分狙えるはずだと考えたのだが,これがなかなか困難であった.そこで我々はカンニング同盟を結んだのである.これぞという一二問だけ,答えを教え合うのだ.(もちろんカンニングはいけないことに決まっているが,当時は子供だったことと公式の試験ではないことからそこまで気にしていなかった.) これでパーフェクトが出せるのでは,とがんばったのだがどうしてもあと一歩及ばなかった.そして迎えた6年生1学期の最終回,私は調子がよく,1問を除いてすべての問題ができている自信があった.その1問は日本史のサンフランシスコ講和条約に関連した問題で,サンフランシスコの位置はどれか,アメリカの地図の中から選べ,というものであった.当時私は日本史の勉強中で世界地理はまだやっていなかったので,この問題が分からなかったのだ.大人になってから私はサンフランシスコ郊外のバークレーに2回住むことになるのだが,もちろんその時はそんなことはわからない.A君にこの問題がわかるか,というサインを送ったのだが,彼はわからないと答えた.パーフェクトが出せるかどうかはこの問題にかかっている.散々迷った末,私は東海岸の都市に丸を付けた.しかし,試験が終わった直後,A君はサンフランシスコはここだ,と言って西海岸を指さし,やった,パーフェクトだ,と宣言したのである.つまり彼は答えは知っていたのだが,自分だけパーフェクトを出すために答えを教えなかったのである.これによってカンニング同盟は崩壊した.しかし答案が帰って来てみると,彼は漢字問題の一問で微妙に形を書き違えてしまっており,この問題が1点だったため,300点満点のところ299点になってしまったのである.彼が1位,サンフランシスコ問題が2点だったために私が298点で2位であった.

次の学期はカンニングはなしで我々は普通にがんばった.しかしやはり最後までパーフェクトは出せなかった.四谷大塚でパーフェクトを出せたのはB君の1回だけであった.一方もう一つの日進では問題が易しめでパーフェクトが出やすいと言われていた.3人か4人が出したと思うが,私は一度だけ出すことができた.この時本当は私は日進で2回連続パーフェクトが出せたと思ったのである.これで新記録だ,と思ったのであるが,答案が返ってくると2回目では私が「ペルシャ湾」と書いた答えが×になっており,正解は「ペルシア湾」だというのだ.そんなばかな,新聞でもみな「ペルシャ湾」と書いているし,そもそも私の持っている文部省検定教科書にも「ペルシャ湾」と書いてある,と抗議したのだが,日進があらかじめ学期初めに配った採点基準があり,そこに「ペルシア湾」でなくてはいけないと書いてあると言われた.本当にそう書いてあり,そのため私の抗議は通らず,私の2回連続パーフェクトは幻に終わった.

A君はその後ハーバード大学に進学した.応用数学を学んで現在はアメリカの金融機関に就職している.原武史『滝山コミューン 一九七四』(講談社)という本があり,講談社ノンフィクション賞を受賞しているが,同書に仮名で登場しているのがA君である.A君299点の回の話もこの本に出てくる.B君は東大医学部に進み,現在は私大医学部の教授をしている.我々は理科系に進んだが,このような暗記主体の試験のできは理科系の研究能力とはかなり関係は薄いであろう.東大法学部の人たちの好きな,司法試験とか,国家公務員試験とかの方がずっと相性がよさそうである.実際この頃一緒に四谷大塚にいたほかの人たちを見ると,今では有名弁護士,国税庁長官,駐EU大使などになっている.私が今とは大きく違う種類の人たちと過ごしていた頃の話である.

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