母と数学

私の母,浅野雍子(ようこ)は40歳で亡くなった.死因は胃癌,1976年の私が中学1年生の時のことである.40歳になって地元の無料検診の案内が来て胃のレントゲン検査を受けたところ,すぐに入院してくださいと言われ,そのまま半年も持たなかった.母は算数,数学が得意だったので,私が数学を好きになったのは母の影響である.父や二人の祖父も理系ではあるが,特に算数,数学が得意ということは感じなかった.

母は高校生のころ東大理系を受けようとしたが,高校の先生から,数学はできるが英語が怪しいので東大だけに絞るのは危険だ,早稲田や慶応も受けなさいと言われたとのことだ.東大が女子学生を受け入れるようになって間もない頃である.しかし無視して東大だけしか受けなかったところ,やはり英語ができなくて落ちた.昔のことだったので,それならもう大学なんか行かなくてよいと思い,いろいろ他のことで過ごしていたのだが,2年ほどしてやっぱり大学に行こうと思い直した.もう全然勉強していないので,東大一点などと言っても仕方ない,受かったところに行こうと思い,その結果学習院大学理学部化学科に進学した.なお当時の学習院に数学科はなかったのだが,なぜ物理でなく化学にしたのかはよくわからない.化学科の数学もよくできたという話だが,大学を出た後はすぐに結婚して専業主婦をしていた.

私が小学校中学年の頃は,近所の子供に軽く算数を教える仕事をしていた.電車が2台いて片方がもう片方を追い抜くのに何秒,すれ違うのに何秒といった問題が教えた中にあって,これができるか,と私に示したことがあった.これはもちろんよくある問題なのだが,私はこの種の問題は初めて見たので,一生懸命30分くらい考えて解いたことを覚えている.私が小学校6年生の時から公文式の教室を自宅で始めた.私は進学教室に行っていて,算数の計算は最高レベルで速かったと思うのだが,母はさらに速かった.公文式では当然,子供の答案を採点するための答えの冊子があるのだが,問題を見た瞬間に答えが分かるので,いつも答えの冊子を見ないで直接答案を採点していたのを思い出す.中学受験程度の算数はどんな問題でも解けた.私が麻布中学を受験した時,すでに終わった試験問題を待っている父母向けに公開したのだが,算数の問題を見てすぐに全問解けた,簡単だ,と言っていた.なお当時の私の友人の母親にはマスコミのネタになるようなレベルの教育ママが何人もいたが,母はそういう方向には全く関心がなかった.さらに中学高校レベルの数学もたいていできたし,大学数学も偏微分や重積分の計算くらいはできたと思う.しかしすぐに亡くなってしまったので,残念ながらあまり進んだ数学の話はしたことがない.

40歳というのは数学者にとってフィールズ賞をもらえなくなる年だが,若い頃の私にはこの年を超えて生きている自分を想像するのが困難だった.ちょっとでもおなかの調子が悪いと何か重大な病気なのでは,ということですぐにレントゲン検査を受けた.今考えてみると小さい頃からこんなにレントゲン検査を受けたことの方がよほど体に悪かったと思う.その後30歳くらいになって大学の血液検査でひっかかって胃の内視鏡検査をしたところ,萎縮性胃炎だと診断された.これはピロリ菌感染の結果なるもので,私の世代だとたくさんの人がかかっているのだが,胃癌リスクをかなり高めるものとされている.そのため毎年胃の内視鏡検査を受けているが,現在ではピロリ菌は除菌が済んでいる.なお胃やそれに近い食道,大腸などの癌の危険性には私はとても敏感だが,ほかの部位,たとえば肺癌については全く心配していないので,医学的にはあまり意味のある心配の仕方ではないのであろう.なお医者からは,ピロリ菌を除菌して毎年内視鏡検査をしていれば胃癌の心配はほぼしなくてよいと言われている.

雍子という名前はかなり珍しいものである.今では「雍」の字は常用漢字にも人名漢字にも入っていないので名前につけることはできず,同じ名前の人は戦前生まれに限られる.この字を説明するときは,「人権擁護の擁の手偏のない字」と言っていたのであった.母が亡くなって40年以上がたち,この字を見ることはほとんどなくなったが,秦の雍城,清の雍正帝,北京の雍和宮など中国関係でたまにこの字を見かけることがあり,懐かしく感じるところである.母の子供時代は戦争にかかり,大人になってからも自分の能力を発揮できたとは全く言えない人生だった.いろいろ思うことはあるが,これも遠い昔のことになってしまった.

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