ジャーナルエディターの経験

私は数理物理のトップジャーナル Comm. Math. Phys. のエディターを最近まで18年間やっていた.他の6つのジャーナルは今もエディターをやっており,編集長をしているジャーナルもある.その経験に基づく話である.

数学関係者ならだれでもレフェリーに時間がかかることをよく知っているだろう.数学では半年というのはごく普通の長さであり,1年以上かかることも何らまれではない.(生命科学の人が,「レフェリーするのは大変だ.丸一日かかることもある」と言っているのを見てとても驚いたことがある.私が著者として経験した最長レフェリー期間は2年,エディターとして経験した最長レフェリー期間は4年である.) なぜそんなにかかるのかというとやはり,正しさをレフェリーがチェックすべきということになっているからである.他の多くの自然科学ではそもそも絶対的な正しさなどないが,数学では紙の上の議論だけで絶対的な正しさが保証されるというのが建前である.出版された論文はすべて正しいことがチェックされているはずだということになっており,実際にはちょっと間違っている論文はたくさんあるが,まともな雑誌であればメインの結論が間違っている論文というのはかなりまれである.またメインの結論が間違っていることが後でわかればその論文は撤回されるべきだと考えられている.そこでレフェリーは一行ずつ読んでいくのだがこれはとても大変な作業である.これを無償かつ名前の出ないサービスとしてやってくれている多くの方々の努力は大変ありがたいことである.しかし一方残念ながら,エディター,レフェリーの中には何もしないで二三か月ほっておく人が少なからずいるのも事実である.まずレフェリーを依頼した際には,何らかの理由でできないのならさっさと断ってほしいし,その場合はできるだけ他のレフェリーの候補を挙げてほしいのだが,何も返事をしないで何週間も放置する人というのがかなりいる.またエディターは,レフェリーに早めに頼む,レポートが来たら早めにアクションを取る,著者からの問い合わせに迅速に答えることが責任だと思うがこれも何もしないで放置する人がいる.そんな人はエディターをやめさせるべきだと思うかもしれないが,そういう人を全部やめさせるとエディターの数が足りなくなってしまうのである.さらにレフェリーを引き受ける際にはたいていのジャーナルは二三か月の締め切りを設定するがこれも守られないことが多い.みんないろいろ忙しいので仕方がない点も多いのだが,催促や問い合わせには,遅れていますがいついつまでにはやります,といった答えをしてほしいものである.締め切りに遅れても大変詳しくよく読んだことが分かるレポートを送ってくる人もいて,それは大変ありがたいことである.一方問い合わせや催促に全く答えない人がいて,そういう場合,あきらめて他のレフェリーに頼み直すべきなのか,しつこく催促して待った方が早いのかの判断は難しい.私は割としつこく催促する方で,「返事をよこさなければ電話する」とメールに書いて,実際に国際電話を掛けたことも何度もある."Oh, how are you, Yasu?" とか言われて,お前が返事しないから国際電話してるんだよ,と思ったこともある.またレフェリーの候補が数少なく,そういう人たちに続けて断られるとかなり困ることになる.世界で数人しかレフェリーできない論文というのはごく普通にあるのだ.A さんに頼むと,私は忙しくてできません,B さんに頼んでくださいと言われ,B さんに頼むと,私は忙しくてできません,A さんに頼んでください,と言われることもある.

あとよくあるのは現代数学における重要性が低いのではと思われるマイナーなテーマの論文である.私が編集長のジャーナルではそういうものはどんどんリジェクトしている.研究費やポストの審査だとすぐにネガティブな結論を下した場合,その人は研究の道を断たれてしまう危険があるので慎重にする必要があるが,論文がすぐにリジェクトされてもすぐにほかのジャーナルに投稿し直せるのでダメージはほとんど全くない.むしろ1年たった後で「たいしたことない論文なのでリジェクトです」という方がよほどダメージである.だから意義が乏しいと思ったらすぐに,「うちの雑誌には適していません」と言ってリジェクトすることにしている.これによって本当は載せられる論文をリジェクトしてしまう危険はあるが,そのような論文はほかのジャーナルに出し直せば載るはずなので実害はほとんどないはずである.私が編集長をしている Internat. J. Math. は全数学ジャーナルの中で真ん中レベルのものだと思うが,このようにすぐにリジェクトされる論文が投稿論文の2/3くらいある.残りの論文はレフェリーに回り,その約半分がアクセプトされている.アクセプト率を尋ねてくる人がよくいて,十数%というととても厳しいように聞こえるがそういうわけではない.普通に研究していたのでは決してお目にかかることのない種類の論文というのが世界中にはたくさんあるのだ.なお数学の論文は TeX で書かれるものだと思っていたが,Word で書かれているものが驚くほど多い.Word だから駄目だという偏見は持っていないつもりだが,実際には Word のものは質があやしいことが多い.結果的に Word で書かれた論文を私がアクセプトしたのは1回だけである.

次に問題になるのはとんでも論文である.Fermat の最終定理の初等的証明というのがよくある.ほかに,双子素数問題,Goldbach 予想 などが人気がある.Riemann 予想もそこそこある.証明と称するものを見ると全くまともな数学的議論が行われていない.xn+yn=zn の解があったと仮定して矛盾を導くのだが,x, y, z が正の整数であることも,n が3以上であることも使わないで矛盾が出たりするのだ.あまりにひどいのでここが違ってますよ,と言ったこともあるのだがそういうと喜んで,直しましたというのをまた送ってくる.うんざりして放置すると,今度は間違いが発見されなかった,だから正しいのだ,とか言い始めるので,一切相手にしないのがよいとわかった.「一刻も早く賞金の100万ドルが欲しいので私の Riemann 予想の証明を今すぐ出版してください」というのもあったし,「私は Riemann 予想を証明した.私の論文を出版したければ金額を提示せよ.一番高い金額を出したところに出版させてやる」というのもあった.また国際書留郵便で送ってきて「私の偉大な証明は公式機関に登録されている.これを盗もうとしたらすぐに告訴してやるぞ」という人もいた.

もっとシリアスな問題としては.二重投稿や盗作がある.数学ではそんな不正は少ないのでは,と思っていたが結構あるものだと知った.レフェリーに回したら,この論文は今別のジャーナルでレフェリーしているところです,と言われたことがある.私の学生の論文の盗作ですと言われたこともある.本人がすでに出版した論文と同じものだったこともある.この場合は本人にそれを指摘したのだが,「新しい結果が付け加わっているから別の論文だ,前の論文を引用しなかったのは単に不注意で忘れただけだ」と言われたのだった.しかしその新しい結果というのは数行の単なるリマークで,それ以前の20ページくらいは一字一句同じだったのだが.またコンピュータシステムによるチェックをかいくぐろうとしているのか,盗作の際に記号を変えてくるケースもあった.Lp空間で証明されている結果を盗作する際に,全部L2空間に変えたというのも見たことがある.

去年(2020年)は私のやっているジャーナルが大規模不正に巻き込まれ,2本の論文を撤回した.1本は自分がレフェリーした論文にアクセプトのあとに無断で著者として加わるというものであった.著者の追加を事務的な手続きとして出版社が認めてしまったため,エディター側では気づかなかったのである.もう1本では別人のほぼ同内容の論文が同時に別ジャーナルに投稿されていたもので,全員ぐるだと思われる.この事件では数十人が関与していて仲間内でレフェリーして通し合っていたのである.この一連の事件は盗作で大騒ぎになって現地のマスコミにも大きく取り上げられたので関係者は厳しく処罰されたものと思われる.関係者の一人は私に,「これがばれたら大学を首になってしまいます.何とか見逃してください」と書いてきたがもちろん無視した.

さて最後に全然別の話として,impact factor の話をしよう.これは引用回数に基づくジャーナルのランク付けの数字であり,数学の人はあまり気にしていないが,分野や国によっては非常に重視されているものである.出版社はこの数字を気にしていてよくこれを上げようと考えている.数学ジャーナルの数字は生命科学などより桁違いに低く,世界最高峰ジャーナルでも4くらいであり,1あればかなり良い数字である.しかし impact factor が1というのはインチキで実現しやすい数字であり,あまりあてになるものではない.たとえばある人が毎年1本論文を書く,毎回必ず自分の前の論文を引用する,ということを考えてみよう.数学では十分に現実的な仮定である.この人の論文がほかのだれからも引用されなかったとしても,そういう人の論文ばかり集めて出版すればそれだけで impact factor は1になるのである.実際これに近いことをしているのではと思えるジャーナルはあるようだ.

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