数学英語

数学の研究成果は英語で論文を書いたり,口頭発表したりしなくてはならない.(国内の研究集会やセミナーなら日本語で話すこともあるが.) 学生や若い人の英語を見ていて気付くことはしばしば多くのケースについて共通しているので,そういうよくある雑多な例についてまとめてみた.なお私は数学英語についてそれなりの経験はあるつもりだが,ネイティブスピーカーではないので当然100%の自信はない.以下に書くことはあくまで私の個人的見解である.こういったことについての私の推奨する本は,S. Krantz, "A Primer of Mathematical Writing" (Amer. Math. Soc., 2017) である.この本は売り物だが,arXiv で無料版が手に入る.

まず最初に言うべきことは,式も文章の一部であって最後にはカンマやピリオドが来るということである."We have the identity x=y." という文には最後にピリオドが必要である.また文を数字や記号で始めないというしきたりもある."Since f is continuous..." と始めるのはよいが,"f is continuous..." で文は始めない.そうしたい場合は "The function f is continuous..." などのようにしかるべき単語を補う.また ∀ や ∃ の記号は数理論理学でない限り,黒板などに書く時の略記法なので論文では使わないとされている.実は私の論文で ∀ が使われている例がいくつかあるのだが,それは共著者が書いたものを直し切れなかったのだ.これと同様のものとして,if and only if の意味の iff も略記法であって論文には不適切とされているが,私の論文中には共著者が書いたものが残っている例がある.

一般的な英文の注意として,isn't や doesn't などの省略形はよくなくて is not や does not と書くべきだという意見がある.これについてはネイティブスピーカーでも同意しない人もたくさんいるようだが,ネイティブスピーカーでない我々はできるだけフォーマルに書くようにした方が安全だと思う.(ネイティブスピーカーでない人が適切なレベルでくだけた文章を書くのはとても難しい.) 他の一般的な注意として which/that の使い分けがある."We have a self-adjoint operator H, which is positive now." などのような非制限用法の時は which でなくてはいけないということについては全員の意見が一致していると思うが,カンマなしの制限用法の場合,that であるべきだと強く主張する人たちがかなりいる.これについてはネイティブスピーカーの論文を見ても,また新聞雑誌の記事を見ても実際には which を使っている例はたくさん見つかるので,私としては断言するのははばかられるところだが,そういう意見が強くあるということは知っていた方がよいと思う.また別の注意として,文をカンマで切って and や but でつなぐのはよいが,文を And や But で始めるのはよくないというものがある.これも守っていないネイティブスピーカーがたくさんいるのでどこまで守るべきか微妙なところなのだが,上と同様のコメントが当てはまる.

あとは単数,複数の区別があるが,function, manifold, space などの数学的対象はみな可算名詞なので,不定冠詞 a がついたり複数形になったりする.紙の意味の paper は不可算名詞だが論文の意味の paper は可算名詞である.また advice は不可算名詞なので,数えるときは a piece of advice などと言う.The following は単複同型なので,"The following are equivalent." などと言う.(これを TFAE と略して黒板に書くことはよくあるが,これも論文に使うべき表現ではない.) 不定冠詞が a か an かは綴りではなく発音が母音かどうかによる.たとえば a uniformly continuous function であり,an HS-class operator である.Connes のように s で終わっている人名の所有格はアポストロフィーだけをつけて Connes' だと昔習ったような気がして私は論文にそう書いていた.実際にそう書いているネイティブスピーカーもよくいるのだが,これは Connes's が正しいという意見が強いようである.私は昔論文のタイトルに Connes' と書いていたのだが,出版社がこれを黙って Connes's に直していたのだった.私はこのことに数年気づかず,ずっと自分の論文リストに本物の題名と違うものを書いていたのである.そのほか,プラスアルファというのは日本語の表現であって,英語に plus alpha という言い方はない.

普通の英単語だが数学で使う時によく問題になるのが,denote である.伝統的に正しい使い方では記号を主語に取るのであって,"The symbol H denotes the Hilbert space of all the L2 functions on X." のように使う.しかし "We denote the Hilbert space of all the L2 functions on X by H." のように人を主語にして書く人がとてもたくさんいる.これは間違っていると強く主張するネイティブスピーカーたちがよくいるので,一応避けた方がよいと思う.私は昔はこのことを気にしていなかったのだが,ある時から気になって自分の古い論文をチェックしてみたところ,後者のように書いている例がたくさん見つかった.そのうちの一部はイギリス人の共著者が書いたものだったのだが.

次に黒板などに書くときの注意である.証明開始の意味で∵)と書く人がよくいる.∵という記号は今ここに書いている通り JIS コードにもあるし,TeX でも \because という名前がついているのだが,私の知っている限り欧米ではほとんど使わない.(∴のほうはこれよりは使われている.) これを日本人が黒板に書いて,「それは何か」と聞かれているところを見たことが何度もある.同じく欧米で使わない数学記号として≒がある.「大体等しい」ことを表すのによく使われる記号は≈である.このほか,該当する,しないを表すのに〇×を使うこともあるが,これも欧米では使わない記号である.私の若い頃の論文に〇×(さらには△まで)を使っている例があるのは恥ずかしい.これとは逆に欧米で見るが日本で見ない書き方として,such that の意味の∋がある."Take a function f ∋ for all M>0, there exists x with f(x)>M." のように黒板などに書くのだが日本人でこう書く人は一度も見たことがない.

後は発音の注意であるが,間違いやすいアクセントはいろいろある.たとえば algebra の ge にアクセントを置いて発音する日本人がよくいるが,正しいアクセント位置は最初の a である.アクセント位置を間違えるととても通じにくいので注意が必要である.ネイティブスピーカーあるいは英語の信頼できる人の講演のアクセントに普段から注意することが重要だ.疑問があるときはそのたびに辞書で確認すべきである.ほかにも母音の発音が間違いやすい例はよくある.たとえば a の発音はアなのかエイなのか,である.これも人の講演を注意深く聞いて疑問があれば辞書で確認すべきである.他に数学用語で多くの人が間違って発音している単語として annihilate がある.この発音はアニヒレイトではなく,アナイアレイト(h は読まない)である.あともう一つ,finite はファイナイト,infinite はインフィニットであるが,これも間違えている人がよくいる.

∀ や ∃ の記号は上に書いたように黒板などの手書き用なのだが,英語に限らず日本ではこれを x∈ X のように上に上げて書く人がプロの数学者を含めてとてもたくさんいる.こう書く人の方が多数派であると思う.しかし私の記憶の限りでは,欧米でこういう風に書く人を見たことがない.数理論理学における論理式の書き方と同様,∀x∈ X と書くのが普通だと思う.なぜ日本でこういう書き方が広まっているのか私にはわからないところである.

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