秋入学構想への罵詈雑言のページ:
はじめに:
秋入学構想について、東京大学当局が学内の構成員に対して、パブリックコメントを募集していました。しかし、その
投稿フォームは、狭く限られているだけでなく、強いバイアスがかかっています。このことは大学当局が学内の構成員の考えに真摯に耳を傾ける意思をもってい
るのか?疑いをもたせるものです。そこで、こういう形での意見表明を行うことにしました。恐らくこの webpage
は東大数理関係者くらいしか見る人がいないと思いますが、ご覧になる方がこの問題を考える際の(ヒントというよりそれ以前の)呼び水になれば幸いです。
このページに書いていることについて河澄はオリジナリティーを主張しません。もしアイディアと呼べるようなものがあるとお考えならば、差し上げますので、
このページを refer することなしにお使い下さい。
なお、秋入学移行に反対する東大教員有志のページがありま
す。ご参考までに。(2012年 4月21日一部修正)
議論の混乱:
まず秋入学の是非を議論する前に指摘しておきたいのは、次の二つの問題が混乱して議論されているということです。
(i) 入学を春にするのか秋にするのか?
(ii) 卒業を春にするのか秋にするのか?
これらは独立に議論されるべきですし、独立に議論することは可能です。なぜなら「中間まとめ」p.26 所引の学校教育法第89条には
大学は、文部科学大臣の定めるところにより、当該大学の学生で、当該大学に
3年以上在学したものが、卒業の要件として当該大学の定める単位を優秀な成績で修得したと認める場合には、同項の規定にかかわらず、その卒業を認めること
ができる。
とあるからです。この条文によって3年半の就学による春入学秋卒業は可能になるはずです。もちろん、そのための大胆な制度整備は必要で、慎重に検討されな
ければなりません。1年生の春に東京大学に入学し、4年生の秋に東京大学を優秀な成績で短縮卒業し海外に雄飛するというのは理想的なシナリオの一つではな
いのでしょうか?(2012年1月28日)
議論の順番と国立大学の社会的責任との関係:
ギャップターム/イヤーは、本来、大学進学予定者の個々の選択に任されるべきもので、強制とは馴染みません。ギャップイヤーは、進学予定者の父兄の経済力
が充分にあるならば、現在の春入学制度のもとでも可能です。「中間まとめ」の提言はギャップタームの強制的導入です。これは議論の順番が間違っています。
「中間まとめ」で言うところの
NPO「体験活動推進機構」(仮称)および「高度グローバル人材育成大学コンソーシアム」(仮称)が、実際に活動を開始して数年を経過し、進学予定者の
50%以上がそれらを利用してギャップイヤーを体験する状況になってはじめて、秋入学への移行の是非を議論し始めることが可能になります。高校卒業後数年
間の青少年の健全育成は国立大学の社会的責任の一つです。ギャップタームの受け皿がしっかりしていない状態で、秋入学移行によるギャップタームの強制を論
じるのは、無責任な恥ずべき行動です。
(2012年1月28日)
「個性」と「体験」の崇拝:
秋入学の懇談会の中間まとめでは「新たな達成目標の下、多様な体験・個性を尊重する考え方に立って、将来の教育システムを構想することが適当。」とありま
すが、これを見て思い出すのは M. ウェーバーの「体験」「個性」批判です。
近ごろの若い人たちのあいだでは一種の偶像崇拝がはやっており、これはこん
にちあらゆる街角、あらゆる雑誌のなかに広くみいだされる。ここでいう偶像とは「個性」と「体験」のことである。(中略)さて、お集りの諸君! 学問の領
域で「個性」をもつのは、その個性ではなくて、その仕事(ザッヘ)に仕える人のみである。(ウェーバー「職業としての学問」尾高邦雄訳, 岩波文庫
p.27)
ところが、現代の人々にとって、とくに現代のヤンガー・ジェネレーションに
とって、もっとも困難なのは、この日常茶飯事に堪えることである。かの「体験」をもとめる努力も、この意味の弱さからきている。というのは、弱さとは結局
時代の宿命を正面(まとも)にみることができないことだからである。(同書 p.57)
大学は何をするところなのでしょうか? もちろん学問をするところです。私は1983年に東京大学に入学しました。その4月の入学式での当時の本間長世教
養学部長から「大学はレジャーランドではありません。」との訓示を受けたのを覚えています。(平野総長の訓示はもっと高尚な話だったと思いますが覚えてい
ません。)ギャップタームの内容として「中間まとめ」のおいて提言されているものは「大学のレジャーランド組織化」です。約30年を経た2012年に濱田
総長が東京大学のレジャーランド化を推し進めるとは!! T.
マンの「ファウストゥス博士」にも活写されていますが、「個性」と「体験」の重視のあげく、ドイツはナチズムの奈落に落ち込んでいったのでした。「個性」
と
「体験」の重視というのは国が滅びるときの典型的な症状なのかもしれません。
(2012年1月28日)
本当に議論したいのは、
(i)
社会の手厚い経済的支援(この不況と財政難のなかで誰が負担してくれるのでしょうか?)なしに、ギャップタームを導入することで、富裕層の子弟以外には著
しく不利になること。現状では、中流以下の家庭の子弟がギャップタームを有意義に過ごすのは困難です。
(ii)
父兄の負担の長期化。結果として浪人もしづらく(1浪の経済的負担は今の2浪と同じ、2浪の経済的負担は今の3浪と同じということです。)なりますし、大
学院進学も難しくなりますから、大学院進学者も大きく減少する心配があります。ところで東京
大学は完全に大学院重点化された大学だったはずです。
(iii) ギャップターム期間中に学力低下が決定的に深刻になること。
(iv) 秋入学で「ランキングが上の」大学と直接競争することで東京大学の位置が低下すること。
などですが、それらについては後日とさせてください。(2012年1月28日)
大学院進学者の減少への懸念:
父兄の負担の長期化は、大学院進学希望者を大きく減少させる心配があります。「余計に2浪したと思って修士課程に進学させて欲しい」と両親にせがんだ記憶
を持つ大学教員は少なくないと思います。秋入学の実施で、少なくとも半年、現状のままでは一年間の「強制浪人」となるわけですから、これから秋入学に移行
する大学生は、いかに理解のあるご両親でも大学院進学を認めてもらえにくくなると思います。東京大学は大学院重点化されています。東京大学の学生の半分は
大学院生だそうですから、経営への影響は深刻です。(この一点だけでも秋入学構想を撤回する理由になると思います。経営評議会は総長を止める責任がありま
す。彼らは何を考えているのでしょうか?)また、現在のように入学定員の縛りがキツい状況では、一定量の進学希望者がなければ大学院教育の質は保てませ
ん。この問題への対策として、優秀者への新たな奨学金制度を創設するから大丈夫とかいうゴマカシは効かないと思います。奨学金というのは大学が支給するお
金なのですから収支にはプラスになりません。また、現在の財政難では大学院教育の質を保証するに足るだけの学生を確保できるとも思えません。(2012年
2月1日)
大学の多様性の否定としてのギャップターム強制または東京大学の理系研究
大学としての地位の放棄:
ギャップイヤー/ギャップタームは飽くまでも個々の入学予定者の選択に任されるべき問題です。これを強制することは、多様性を最も尊重するべき総合大学の
本質を損なうものです。私は、春入学を維持した状態であれば、個々の学生の自由な選択に任されたギャップイヤー/ギャップタームを取り易くする制度変更や
支援システムの構築に反対するつもりはありません。問題は、ギャップタームの強制にあります。巷間言われる「グローバル人材」なるものは、大企業に都合の
よい事務系サラリーマンのことを
言っているとしか思えません。すくなくとも今回の秋入学構想は「高級事務系サラリーマン」の養成しか考えていないように見えます。よく言われるアメリカの
大学教育は、法曹や医師の養成を大学卒業後のロー・スクールやメディカル・スクールに委ねており、そもそも専門職の養成を考えていません。専門職、技術職
および研究職の養成は東京大学の重要な(おそらく事務系サラリーマンの養成よりずっと重要な)使命です。ギャップタームによる理系教育の破壊をはじめ、今
回の秋入学構想はこれらの使命に全く無頓着としか言えません。とくに私たち理系教員にとって切実なのは研究職養成の問題です。すくなくとも理系の研究大学
は研究者養成大学と表裏一体の関係にあります。数学はそれほどでもありませんが、優秀な大学院生やポスドクの清新で大胆な発想と教員の老練な知識・知恵の
協力が理系の研究を前進させてきました。優秀な大学院生が確保できなければ理系研究大学はおしまいです。文系出身の濱田総長は東京大学の理系研究大学とし
ての地位を放棄したいのでしょうか?(2012年2月3日, 6日一部修正)
秋入学による教養教育の長期化に本郷は耐えられるのか?:
この数年、専門教育の前倒しのために、本郷の幾つかの学部は、2年後期の授業の一部を本郷に移す試みをしています。私が学生の頃も分野によっては、他大学
に較べて1年半の遅れを取り戻すのが大変だといってた理科一類の知り合いもいました。私は教養学部のあるべき姿から言って、それは受忍すべき問題で、本郷
に授業を移すことには大いに疑問を感じています。しかし、いずれにせよ、秋入学の実施は、専門教育のさらなる遅延を含意します。本郷の先生方はそれに耐え
られるのでしょうか? またそのことに、どこまで気付いているのでしょうか? 興味のあるところです。(2012年
2月7日)
新聞報道を読んで一言:
ある新聞は秋入学について「社会を覆う閉塞感を打破し、将来への展望を切り開く“起爆剤”としての期待が高まる。」と言っています。生身の学生たちの人生
を「起爆剤」に使うということなんですね? 吐き気がします。(2012年
2月20日)
秋入学説明会でのある質疑応答について:
さる
4月19日に東大数理大講義室において総合文化研究科拡大教授会に先立ち「『入学時期の在り方』についての説明及び質疑応答」が行われました。総合文化の
側からの質問にたいして、入学時期問題担当の清水理事から注目すべき回答がありました。総合文化からの質問は
高校教育との接合に関し、受験競争の中で染み付いた点数至上に偏った意
識・価値観をリセット
する上では、春季に始まる従来の前期課程教育こそが、そのための場で
あるべきではないのか。
というものでした。ここで「前期課程教育」とは所謂「教養教育」を指します。それに対する清水理事の回答は(私の聞き間違いでなければ)「従来の前期課程教育では充分ではない。」というものでした。清水理事の
判断の詳しい根拠が述べられるだけの時間はありませんでしたが、新制大学発足以来の東京大学における前期課程教育=教養教育の営みが土足で踏みにじられた
瞬間であったと言えると思います。東京大学の教育に最終的な責任を負う理事会の一員として「従来の前期課程教育では充分ではない。」と言うのならば、それなりの覚
悟と説明が必要なはずです。そもそも清水理事は、理事就任まで全学ゼミナールのために毎週月曜日に駒場に通っていたことを強調しておられましたが、そのこ
とで前期課程教育の何を理解しておられるというのでしょうか? 全学ゼミナールなど選択科目で学生たちが見せる顔は飽くまでも「他所行きの顔」です。必修
授業においてはじめて「普段の顔」の片鱗が見えてきます。具体的には、進学振り分け制度のもたらす鬱陶しいもろもろ、反面、進学振り分け制度が学生たちの
勉強の最低線を保障している現実、また入学当初の学生たちの初々しさ=幼さなどです。秋入学前のギャップタームの導入を主張している人たちは、ほとんどが
未成年で幼い部分を残す学生たちを商業主義やカルトの危険にさらすことの意味を理解していません。今回の大学執行部の説明は、あまりに軽薄で無責任な教育
談義に聞こえました。(2012年 4月21日)
もうひとつ重要なことを書き忘れていました。総合文化から、教育の国際化のためのインフラ整備として、留学生の奨学金制度の拡充について質問がありまし
た。それに対して佐藤理事からは奨学金制度の拡充が困難であることが力説され、その一例として PEAK
留学生10名への奨学金の創設が総長の英断であったことが紹介されました。もちろんこの濱田総長の判断は高く評価したいと考えます。しかし、質の高い留学
生を増やすためには、桁違いの規模の奨学金の拡充が必要です。また、ギャップタームの強制にともなう家計負担の増加への対策も桁違いの資金が必要で
す。(PEAK
の数十名と東大の学部入学者3000名が桁が違うということは誰だって分かることですよね?)ようするに佐藤理事は、秋入学構想の目標の一つである質の高
い留学生を集めることも、3月29日付け懇談会報告の p.12 に書き加えられた「コストの影響を受けやすい層、社会的・経済的な支援を要する者への様々な配慮が求め
られる」というくだりも絵空事であるということを力説しておられた訳です。佐藤理事は教育担当理事ですが、教育担当理事によって既に絵空事
であることが力説されている秋入学構想とは一体何なのでしょうか?(2012年 4月23日)
下司の勘ぐり?:
まず、学生によって主体的に選択されたギャップターム/ギャップイヤーを取り易く制度を弾力化することに私は大いに賛成です。後期課程の学生や大学院学生
がリスクも含め主体的に判断して海外に出かけることは大いに推奨されるべきでしょう。大学院教育の国際化は喫緊の課題です。しかし、
何故、ギャップタームは強制なのか?
何故、受験勉強から解放されたばかりで右も左もわからないだろう入学前の学生のギャップタームなのか?
これら2点の疑問は「ギャップターム・ビジネス」という言葉を入れると綺麗に説明ができます。学生とその父兄を喰物にする「ギャップターム・ビジネス」を
目論む勢力が秋入学構想の背後にいるとすればどうでしょう? もちろん下司の勘ぐりであって欲しいのですが。受験勉強から解放されたばかりの入学前の学生
とその父兄が、一定のしかしそれほどでもない経済的な余裕はあるが、ギャップタームを強制された場合、「ギャップターム・ビジネス」の作るパッケージに飛
びついてしまうだろうと考えるのは自然です。他方、学生が、一定期間の大学での勉学を通して主体的に考え、本当の意味で主体性を発揮して、個々別々に計画
を立ててギャップターム/ギャップイヤーを取るとすれば、「ギャップターム・ビジネス」に旨味はありません。未熟な学生に主体性の発揮を制度的に強制する
という論理的倒錯は、パッケージを作って中間利得を取るためには本当の意味では学生に主体性を発揮されたくない、ということで綺麗に説明できます。秋入学
構想が発表されたとき、ギャップターム/ギャップイヤーを推進する人たちから賛成の声があがったのは知っていますが、これら2点の問題点から構想に反対す
る意見は出たのでしょうか?寡聞にして知りません。いずれにせよ、この下司の勘ぐりの当否は、濱田総長の任期終了後の行動を見ればある程度分かってくるで
しょう。(2013年 1月21日)
空理空論:
秋入学の本格的な議論がはじまって1年以上が経ちました。その間に大学執行部から出て来た具体案は、学部教育を死に至らしめ、大学院教育をも破壊し、教職
員が過労死するような、センスの悪い「新学事暦」だけです。総長が各部局で説明会を開いています。(数理の分を私は出席できませんでしたが、数理以外も含
め)出席した方々からの話では、総長は「タフでグローバル」以外の説明を持ち合わせておらず、具体的な問題点の指摘に答える術をもっていないようです。総
長をはじめ大学執行部は、残念ながら、全学的な議論をマネージする能力を持っていないのではないかと疑わざるを得ません。それとも空理空論で世の中が進む
と思っているのでしょうか? そもそも大学執行部のメンバーの殆どは研究者でもあります。彼らの研究は空理空論が通用するようなお目出度いものなのでしょ
うか? それとも(立てる仮説の殆どが上手く行かない三流研究者の)私には思い及ぶことのできない名人芸の世界というものがあるのでしょうか?(2013
年 2 月 24日)
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