コベントリーとウォーリック大学

イギリスのウォーリック大学には1987年に初めて行った.のちに私の共著者となる Evans が作用素環のプログラムをオーガナイズしていたからである.お金は当時大学院生として在籍していた UCLA が出してくれた.私はこれが初のヨーロッパ出張で約2か月滞在した.ロサンゼルスから飛行機で行ったが,着陸直前にロンドン市街地上空のかなり低いところを飛んだので街がよく見えてきれいだった.

ウォーリック大学はウォーリック市ではなく,隣りのコベントリー市にある.ロンドンのヒースロー空港に到着して,長距離バスに乗った.イギリスは長距離鉄道網の整備があまりよくなく,長距離移動にはよくバスに乗る.バスにはトイレもついているし,サンドイッチなどを注文することもできる.到着後,大学が手配してくれたアパートを借りて,週単位の契約で9週間分の料金をトラベラーズチェックで払った.住宅地の中のアパートで場所はコベントリー市の中心と大学の真ん中くらいで,大学へはバスで通うことになっていた.似たような外見のアパートが並んでおり,初日に大学から帰って来た時,どこが自分のアパートかよくわからずかなり迷った.

コベントリー市はゴダイヴァ夫人の話で有名である.領主だった夫の重税を諌めるため裸で馬に乗って街を回ったという伝説である.街の中心部にはこの話を像にしたものが建っている.チョコレートメーカーのゴディバの名前もこの話から取られており,チョコレートの箱にもこの伝説の絵が描かれている.(チョコレートメーカーはベルギーの会社なので,ゴダイヴァと同じ名前だが通常ゴディバと呼ばれている.) 街の中心部は第二次世界大戦でドイツ軍の空爆を受け,徹底的に破壊されてしまっているため,今建っているのは新しい建物ばかりである.また大聖堂は空爆で破壊された廃墟が今も保存されていて有名である.

イギリスの大学というので何百年も前からあるような趣のある建物を期待していたが,ウォーリック大学は1965年創設であり,ごく新しい建物しかなかった.その後 Evans との共同研究のために行ったウェールズの大学も新しいもので,歴史のあるイギリスの大学のたたずまいを味わうのは2017年のケンブリッジ大学まで待たなくてはならなかった.ウォーリック大学はこのように新しいがイギリスの大学ランキングでは上位に入る主要大学の一つであり,特に数学研究センターはいろいろなテーマを決めたプログラムを常時実施している.広いコモンルームがあり,毎日お茶の時間が午前と午後に2回あった.1日2回もあるとはさすがにイギリスだと思った.ここの作用素環プログラムのセミナーで修士論文について講演した.これが自分の所属大学以外での初めての講演だった.のちに多くの共同研究をするようになる Longo ともここで初めて会ったのだが,私は当時まだ無名の学生だったので彼はそのことをよく覚えていないようだ.

作用素環で有名な Ocneanu はこの回の前の作用素環プログラムで1980年代前半にウォーリック大学に滞在していたが,チャウシェスク大統領独裁体制下のルーマニアを捨てて亡命した.博士号を持っていなかったために,ウォーリック大学で博士号を出してもらった.彼の博士論文は Springer Lecture Notes として出版されているのだが,製本時のミスにより1ページの脱落がある.この博士論文の原本がウォーリック大学の図書館にあるため,私はそのページのコピーをこの図書館で取って持っている.

イギリスは雨が多く夏の気温もあまり上がらない.ヒースロー空港に着いて外に出た直後,何かひんやりしたような感じを覚えた.その後も夏にイギリスに来るたび,このひんやりした感じを味わうと,ああ,またイギリスに来たな,という感じるのだった.ウォーリック大学ではビジターの一人が,イギリスに来てから2週間たつがまだ一度も晴れの日を経験していない,と言っていたのが印象に残っている.

イギリスの1ポンド硬貨は2017年に新しくなったが,この頃はもちろん古いものだった.1ポンドコインは分厚く,イングランド,ウェールズ,スコットランド,北アイルランドに応じて模様が違うということだったが,それぞれの中でさらに種類がわかれているのでもっとたくさんの種類がある.シリングと書いてある硬貨があり,そう言えばイギリスの小説でシリングというものを読んだような気がしたが,それはいったい何なんだろうかと思ったところ,昔は1ポンド=20シリング=240ペンスという変な決まりだったが,1971年にシリングはなくなって,1ポンド=100ペンスに変わったということだった.その後も旧シリング硬貨は5ペンスの価値があったということである.

近所のケニルワースには廃墟と言ってもいいような古城がある.他の参加者と行ってみたがなかなか良い感じだった.また,Shakespeare の生地として知られるストラトフォード・アポン・エイヴォンもここから割と近いのでバスに乗って行ってみた.アポン・エイヴォンというのはエイヴォン川に面したという意味なので,実際エイヴォン川がすぐそばを流れている.古い街並みや Shakespeare ゆかりのものがたくさんあってきれいなところである.

ウォーリック大学滞在中に作用素環の国際コンファレンスがダラム大学であったので,電車に乗ってみんなで行った.Ocneanu による指数4未満の部分因子環の分類が宣言されたのがこのコンファレンスであり,この講演を聞いた時の衝撃は今も鮮明に覚えている.ほかにも Jones の講演が話しているときの口調まで含めて記憶にあるが,他の講演についてはよく覚えていない.大学の古い施設でのコンファレンスディナーがあり,私はちゃんと締め切りまでに申し込んだのに,あとになって満員だからあなたは参加できません,と断られてしまった.この後,ウォーリック大学でも別の国際コンファレンスがあり,Ocneanu はここでも同様の話を発表した.こちらのコンファレンスのプロシーディングスが出版されており,そこにこの結果の概要が載っている.よく引用される有名な論文である.

滞在中に何度かロンドンにもバスで行ったが,バスの往復料金は片道と同額,バス往復とホテルをセットで買うとホテル単独より安いという不思議な仕組みだった.これのおかげでけっこう立派なホテルに泊まることができた.その後イギリスに行った際もこの仕組みは生きており,帰りにロンドンに一泊する際には,バスの往復とホテルをセットで買ってバスの帰りを使わずに捨ててしまうのが一番安いのだった.これはだいぶ便利だと思ったのだが,その後残念ながらこの仕組みはなくなってしまった.

上で書いた亡命の話だが,彼はアメリカ大使館で手続きをした後,イギリス国内は安全だと思ってウォーリック大学内にしばらく暮らしていた.ある日宿舎で寝ている間に知らない人が部屋に入ってきているのに気づいて彼はパニックに陥った.ルーマニア秘密警察が亡命者の奪還に来たと思ったのである.しかしそれは単に掃除に来た人なのだった.今では単なる笑い話だが,北朝鮮のような国から脱出してきた人にとってはとてもシリアスな話なのであった.

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