雑書の漫読



2016 年 12 月 9 日
山口栄一著「イノベーションはなぜ途絶えたか」ちくま新書 (2016)

日本の研究・開発費の8割を担ってきた日本の民間企業が科学研究から撤退したことが、創造的な若者 たちから想像の場を奪い、日本の産業競争力を急落させるとともに、日本全体にわたって科学の競争力まで低下させたのである。(p.67)

ということについての書籍であって、正直に言ってお門違いの私には理解できないことも多かった。学問全体を俯瞰する一つの方法として p.91 の「分野知図」は興味深いし、p.123 以下にある共鳴場の形成の必要性については、大学教員の間でももっと問題にされてよいことである。しかし、pp.110-111 に述べられている江崎玲於奈の命名によるという「夜の科学」と「昼の科学」という蠱惑的な標語とともに考えさせられることが多かったのは、以下の部分であ る。今日のさまざまな窮状の原因の一つを言い当てているような気がする。むしろ「既知派」の優越が「集中と選択」を呼び込んでいるという逆の流れ もあるのではないか?

 インタヴューをしていくうちに気づいたことがある。それは、相容れないような特性をもつ二種類の 技術者が企業内にいるということだ。
 一つは、既知の知識世界の中で、その知識の量を競い合うタイプの技術者である。彼らは技術の極限をめざしているものの、未知の知識には興味 を持たないし、むしろそれに関わることを忌み嫌う。山に登り始めたらその頂上に向かって迷いなくまっしぐらに登っていき、未知の山の存在など 見向きもしない。生産部門の技術者は、ほとんどこのタイプである。このタイプを「既知派」と呼ぼう。
 もう一つは、既知の知識世界で競い合うことに意味を見出さず、未知の世界をいつも探索するタイプの技術者である。彼らはいつも登山への疑念 を抱き、他にもっと高い山があるのではないかと、未知の山ばかりを探す。研究開発本部の科学者・技術者は多くこのタイプだ。このタイプを「未 知派」と呼ぼう。
 この2つの方向性は、どちらも企業にとって必要である。しかし、ある山に「集中と選択」がなされるとき、当然のごとく前者の「既知派」が会 社の空気を支配し始める。こうして「山登りのワナ」ができあがるのである。
(pp.40-41)


2015 年 8 月 4 日
S. クリッチリー著「ヨーロッパ大陸の哲学」岩波書店刊 (2004)

しかし、クイントンはそこから続いて「二つの哲学的世界のあいだに は実際に はどんな収束点も見出しえなかった」と主張し、(もちろん意図してではないが)まるで彼の論点を証明するかのように、実存主義と構造主義およ び批評理論に 関する非常にショッキングな要約を提供するのである。(中略)三番目の批評理論は、次のような言い方で面食らうほどあっさりと片付けられる。 「批評理論家 たちの明白な政治的意図は、分析哲学者の側のどんな関心をも妨げる。後者は中立性に参与するからである。」もしも、こうしたコメントが右で言 及された厳密 さや明晰性や客観的であろうとする決意は言うまでもなく、中立性への参与をも示していると言いうるなら、二つの哲学的世界のあいだにどんな収 束もありえな いおいうクイントンの信念も正当化されるだろう。言うまでもなく、こうした見解はたんに間違っているというだけではなく、知的に不寛容なもの で、致命的な 文化的固定観念を長続きさせるのに役立つだけだと思う。(pp.48-49)

本書は「二つの哲学的世界」つまり大陸哲学と分析哲学に橋をかけようとする。ここでは傲慢な分析哲学者が、いかにも凡庸なやり方で「中立性」を振 りかざし て自らの偏狭さを正当化している。形は変わるが我々の周りでもお目にかかる光景である。

大陸的伝統における哲学は、諸問題を否認しているのではない。まったくそうではない。むしろ、諸問題はしばしば、テクスト的かつ背景(コンテ クスト)的に アプローチされるのであって、したがって、より間接的に見えるかもしれない別の扱い方を必要とするということなのである。 (pp.72-73)


このように大陸哲学はその伝統との関係から分離することができない。(中略)しかし、伝統という概念が取り戻そうとしているのが、現代生活で 失われ、忘れ 去られ、抑圧されている何かである以上、伝統へのアピールは、全く伝統的である必要はない。そういうものとして、伝統へのアピールは、過去に 向き合ってそ れを保守的に黙認するようなものである必要はなく、哲学史や歴史そのものとの批判的対面という形をとりうる。(p.88)


「大陸的伝統」とは言っているが、英語圏以外のほとんどすべての伝統について当てはまることを言っている。

大陸的な観点からすれば、哲学において科学主義を採用することは、 哲学の批 判的で解放的な機能を把握し損ねることを意味する。すなわち、科学主義の採用は、科学的世界把握と、ニーチェがニヒリズムとみなしていたもの が共犯関係に ありうることを見損なうのである。(p.146)

我々の周りでは、矮小化された「科学主義」が同じようなやり方で厄介な問題を引き起こし続けている。


2013 年 1 月 20 日
坂口ふみ著「信の構造」岩波書店刊 (2008)

ヨーロッパの精神性はさらに、この第一の特質と緊密に結びついてい る第二の 特徴を持っている。それは、概念や理論で整理される以前の、できるかぎりなまに感知される現実ーーいわゆる「心」の現実であれ、いわゆる「外 界」の現実で あれーーへの鋭く熱い執意であり、まなざしである。芸術・思想・科学とその革新は。このまなざしによって支えられている。そして、この執意を 支えるもの は、受肉の信念とも言うべきものである。つまり、この、私たち自身であり、または私たちにじかに触れている現実が、何か超越的なもの、深く善 なるもの、愛 そのものの働きであり、あらわれであり、それを語っているはずのものだという信念である。近代のすべての学問と技術と思想の背景には、たとえ ばアシジのフ ランチェスコに見られたような、この燃えるような心があったはずである。(pp.94-95)

おそらく誤読であろうが、私はこの文章に「普遍的な具体物」の研究への励ましを読み込んでしまった。分類空間の理論は、受肉の教説の遠い残響なの だろう か?

2013 年 1 月 12 日
C. C. ルイス報告「文化と教育との関連」への討論での渡辺浩の発言。
梅棹忠夫、栗田靖之編「知と教養の文明学」所収 中央公論社刊 (1991)

ある人の説なのですけれども、体罰というとまず思い出すのが軍隊に おける私 的制裁ですが、それがいつごろ帝国軍隊ではじまったかというと、第一次大戦後ぐらいからだという。明治時代にはやらなかったというのです。そ れまでは士族 が多かったので、その感覚が残っていた。侍の上位者がその下の侍の顔をなぐるというのはちょっと考えられないというわけです。侍は名誉心が非 常に強いです から、人格的な屈辱を与えちゃまずいのですね。そうすると死に物狂いに反抗しうる。軍隊の私刑は、単に苦痛を与えるというだけでなくて、人格 的に辱めるで しょう。鉄砲を持って三味線の真似をしてグルグル回らせるとか、柱につかまってセミの鳴き真似をさせる。ああいう肉体的苦痛を与えると同時に 辱める形のも のは、むしろ武士的なものがなくなってから軍隊ではじまったんだという説があるのです。それが一九三○年代になったら学校教育へ還流してきた と言えるかも しれません。(p.251)

この発言の直前(pp.249-250)に渡辺は江戸時代の武士の(幼児)教育では「どなったり、なぐったりすることをできるだけ避け」ていたと 発言して いる。それを受けて別の討論者の吉田純が「旧中国ではサディスティックなぐらい子供に体罰を与えていますね。」と発言している。

2012 年 4 月 30 日
末綱恕一著「華厳の数論について」「仏教の思想」月報4所収 角川書店刊

自然数は一をたすことによってつぎつぎにできるもので、この相互依 存の関係 を度外視しては、自然数全体を捉えることは不可能である。数学基礎論では、形式主義者が圧倒的に多いけれども、形式主義で自然数を論ずるに は、「自然数と いうものがあって、いくつかの公理を満足する」というように考えるのであるが、これでは自然数論の無矛盾性が証明できたとしても、それらの自 然数が一つの 全体をなして、すべての自然数ということが判然とした意味をもつことを、積極的に基礎づけることはできない。自然数を縁起的に見ることこそ、 よく自然数の 本質を捉えているというべきである。(p.1)

資料としての引用。率直に言って私はこの見解に違和感を覚えます。しかし残念ながら、その違和感がどういうものか明確に説明はできません。

2012 年 4 月 24 日
M. ディルダ著 高橋訳「本から引き出された本」早川書房刊

著名な批評家ジョージ・スタイナーが、オックスフォード大学での指 導教官で ある厳格なハンフリー・ハウスのもとを訪れたときのこと、大学総長賞を授かり、出版されたばかりの評論が書見台に置いてあった。「私は待っ た。その論文に ついての意見が聞きたくて仕方がなかった。その言葉は私がドアを出かかったときにやって来た。『ああ、そうそう、君のパンフレットがあったん だった。いや あ、まばゆいばかりの才能じゃないか。なあ君』」。スタイナーは言う。「嘲りが真冬の空気のように感じられた」(pp.196-197)

単なるゴシップ的な興味からの引用。2011 年 10 月 29 日に引用した「師弟のまじわり」の著者スタイナーにも、こんな過去があったとは!というだけのこと。なお、以下の引用(の引用)の出典はどこにあ るのだろ うか? レフェリー制度へのラディカルな批判とも読めなくもない。ニーチェはこの手のアフォリズムを書き散らしているので、探すのは面倒。

周囲から称賛されているうちは、真に独自の道を歩んでいるのではな く、他人 の道にのっているだけだと心しておくといい。ーーー フリードリヒ・ニーチェ(p.52)

2012 年 4 月 12 日
G.H. ハーディー / C.P. スノー著 柳生訳「ある数学者の生涯と弁明」シュプリンガー東京刊

最も実り豊かな時期に、彼らは同じ大学にはいなかった。ハラルド・ ボーア (ニールス・ボーアの弟で、彼自身立派な数学者であった)の言う所とされているのは、彼らの原則の一つは、一方が手紙を書いても、相手はその 返事を書いた り、それを読む義務さえないことであった(p.86)

スノーによる「ハーディーの思い出」からの引用。彼らとはハーディーとリトルウッドを指す。共同研究者に手紙を書く、いまなら電子メールを書くと いうの は、是非相手に知ってもらいたいことがあるからで、それを読む義務さえないというのは驚嘆すべきことである。しかし、相手の手紙を読むのが鬱陶し く思うこ とがあることも事実であろう。つまり共同研究を長続きさせる秘訣ということなのだろうが、未熟な私にはとても真似のできない境地である。いずれに せよ驚く べき記述である。

2011 年 12 月 11 日
井筒俊彦著「意識と本質」岩波文庫所収

だが、同じく存在の真相を探る詩人といっても、リルケのように、個 的存在者 のフウィーヤだけに意識の焦点を合わせて、ひたすらその方向に存在の真相を追求していく人もある。この型の詩人にとっては、マーヒーヤは始め から概念的虚 構であって、なんら実在性をもたない。リルケの「即物的直視」(sachliches Schauen)は、ここでは、ただ事物の個体的リアリティーを、その究極的個体性において如実に(強調点アリ)直感することにとどまる。
 これにたいして、不変不動のマーヒーヤの形而上的実在性を認めな がら、そ れをそのまま存在の深層次元に探ろうとするかわりに、それが感性的表層に生起してフウィーヤに変成する、まさにその瞬間にそれを捉え、そうす ることによっ て存在の深層をマーヒーヤ、フウィーヤの力動的な転換点に直感しようとする芭蕉のような詩人がいる。
 しかしまた、これら二つの型の、それぞれ違った意味で「即物的直 視」を事 とする詩人とは別に、同じく存在の意識体験的な真相開明に執拗な情熱を抱きながら、しかも一切の「即物的直視」を排除して、マーヒーヤをその イデア的純粋 性においてのみ直観しようとする詩人もある。そのきわめて顕著な例を、私はマラルメに見る。このような詩人の普遍的直観は、哲学の領域では、 普遍的「本 質」の実在論に直結するのである。(pp.60-61)

「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と門弟に教えた芭蕉は、 「本質」論 の見地からすれば、事物の普遍的「本質」、マーヒーヤ、の実在を信じる人であった。だが、この普遍的「本質」を普遍的実在のままではなく、個 物の個的実在 性として直観すべきことを彼は説いた。言いかえれば、マーヒーヤのフウィーヤへの転換を問題とした。マーヒーヤが突如としてフウィーヤに転成 する瞬間があ る。この「本質」の次元転換の微妙な瞬間が間髪を容れず詩的言語に結晶する。俳句とは、芭蕉にとって、実存的緊迫に充ちたこの瞬間のポエジー であっ た。(p.57)

子供の頃、本書を読もうとしてよく分からなかったが、年老いて読み直すとよく頭に入る。それだけいっそう頭が悪くなったということであろう。けだ し書物を 精力的に読み進めるためには頭の悪さが必要であろう。(なお、本書は多様体愛護運動の 必読 文献である。本書を読むことなしに多様体愛護について論ずるのは横着というものである。)ともかく、いっそう頭が悪くなった私には、この三類型は 数学研究 の三類型と読めてしまう。リルケも芭蕉もマラルメもよく知らないが、とりあえず彼らの名前を標識につかう。日本の数学者は私自身も含め、リルケ型 を目指し て冴えないことになっていることが多い。もちろん幸福な例外は多々ある。リルケ型は日本文化に親和的に思われる。いわゆる「竹槍数学」である。し かし、数 学のもつ性質はこれを許容しにくいのではないだろうか。だからと言って、日本文化はマラルメ型を生理的に受け付けないように思う。(余談だがアゲ ツラヒを 批判する宣長のサカシラが私は嫌いである。)もちろん、これについても偉大な例外が我々の周囲には存在する。たぶん私たち日本人数学者は芭蕉型を 目指さな ければならない。ある先輩のおっしゃる「メゾスコピックな数学」がこれに中るだろう。一般論と具体例の鬩ぎあうところで研究を進めていかなければ ならな い。これも大変難しい。しかし、この道しかないように思う。
一方、本書の説明の枠組み 分節 (I) => 無分節 => 分節 (II) はよく出来ているとはいえ、これでは「無」の実体化に陥っているように思う。第 VII 章で語られる「無」は万象の実体的な根源と何が違うのだろうか? 率直に言って通俗的な梵我一如しか説明できていないのではないか? 私の理解が 不充分な だけなのかもしれないが。

2011 年 12 月 10 日
野口雅弘著「比較のエートス」法政大学出版局刊

保守主義も責任倫理もともに、つねに先行する立場との対抗関係にお いて、そ してそれらの「反射」としてはじめてその思想的意義を獲得するのである。こうした観点からすると、冷戦の終焉以後の<保守>はそ れを批判し、 同時にそれに照らして自己をとらえ返すような、そうした存在をもはやもたないことを特徴とする。この結果、つぎのふたつの傾向が現われること になる。ひと つは<保守>のプログラム化、あるいは信条倫理化であり、いまひとつは「左」、あるいは<保守>批判の保守主義化で あ る。(p.46)
「プログラム化」が他者の顔色を見ることの拒否であり、したがって 相互作用 の切断を意味するとすれば、そこには保守主義を成り立たしめていた反省の契機は存在しえないのである。(p.48)

よくぞ言って下さいました。これはクリーンヒットだと思う。日頃もどかしく思っていたことが言語化されるのは読書の効用の一つである。しかし、こ の引用は 本書について誤った印象を与えるかもしれない。困難な状況を正面に見据える本書のウェーバー流の「多遠近法主義的」アプローチには共感を覚える。 「職業と しての学問」を論じた次の引用箇所はその例である。

「事実」と「価値」の分離の要請が、「価値」に対する無関心と体制 への「順 応」を意味するのか、「同等の魅力をもった選択肢のあいだで彼の心や精神が引き裂かれているということ」と結びついているのかの違いは、決し て小さいこと ではない。前者の実証主義は既存の「価値」を追認していき、その価値前提を忘却させるように機能する。アーレントが「イェルサレムのアイヒマ ン」で用いる 「無思想性(thoughtlessness)」という概念を用いながら、シュトラウスはこのことを確認する。そしてこれと同時に、こうした 実証主義とは 明確に区別されるべき学問の可能性を示す。こうした学問はつねにディレンマを突きつけ、現状の「正当性」を揺さぶることになるが、ウェーバー の学問論、あ るいは彼の比較の政治学はまさにこれに当たるといえる。ウェーバーがドイツの大学とアメリカの大学を比較しつつ、一義的にいずれかに肩入れし ないのには、 こうした彼の学問観が反映されている。(p.159)

2011 年 11 月 23 日
ローレン・グレアム、ジャン=ミシェル・カンター著、吾妻訳「無限とはなにか?」一灯舎刊

ロジアの数学教師たちは、数学の難問を解くうえで、予備的な長い大 量の読書 を省き、問題の核心に直接切り込むことで最高の成果があげられる、と信じていた。つまり言葉を変えて言えば、それは「無からスタートする」こ とであ る。(pp.316-317)

本書の趣旨からはずれた部分の引用。残念ながら私は「記述的集合論」というものに疎いので、本書の内容、つまり、名付けることの数学的および神学 的意義、 をよく理解することはできなかった。研究を始める際に「予備的な長い大量の読書」が障害になるというのは我々の周りで日常的に起こっていることで ある。し かし、数学者の殆どは研究に専念しているわけではなく、よくも悪くも教育が本業である。「予備的な長い大量の読書」なしに将来の大学数学教育従事 者を養成 することはできない。ここに大きなジレンマがあるように思う。

2011 年 10 月 29 日
ジョージ・スタイナー著、高田訳「師弟のまじわり」岩波書店刊

彼ら(引用者註:パルメニデス、ソクラテス、カント)のような形而 上学者た ちは、報酬が十分でないからといって、ストライキを打ったり、真理に対する謝礼がないからといって、仕事を休む権利をもつだろうか。あるいは また、ハイデ ガーの存在論とリチャード・ローティの鷹揚な相対主義とでは、違う値札が付けられてしかるべきなのだろうか。このきわめて根本的で本質的な疑 問は、アカデ ミックと称される大学や専門知識人からなる組織の存在することによって、隠蔽された状態になっている。(pp.23-24)

この文章が一人歩きしないことを望みつつ引用する。私を含め殆どの大学人は知識を切り売りする単なる労働者と考えるのが正直なところだと思う。し かし、偉 大な「形而上学者たち」との連続性を否定してしまっては、私たちの存在理由の大きな部分がなくなるのも事実である。

アウグスティヌスは、のちのパスカル同様、修辞学につきものの相対 主義と不 確実性の問題に直面し、悩んでいた。誘惑の戦術をとる「修辞学」と善意に発する教育とは截然と分かつことができない、という問題である。実 際、カリスマ教 師と呼ばれる連中が、二枚舌を使っていっこうに恥じないという実態を嫌というほど彼はみていた。そそのかしのレトリックについて、彼の嗅覚は 異様に敏感で あった。(p.66)

近年持て囃される「熱い講義」の胡散臭さはここにある。この引用箇所とは論旨がずれるが、一歩づつ議論を進めることを必要としない学問は「まと も」ではな い。このことと「面白い授業」は相反的である。にもかかわらず双方に橋を架けないと授業は成り立たない。教師稼業の苦しい所はここにある。
なお、本書の序(pp.4-)にある師弟関係の三類型は強く心動かされるが、私も現役の大学教師である以上、ここで引用するのは差し控える。それ から本書 は、紙数の制限があったとは言え、あらゆることが駆け足で通り過ぎていく印象がある。たとえば、師フッサールへのハイデガーの裏切りについて、著 者スタイ ナーならば限られた紙数の中でももっと面白い話ができたのではないか? しかし、それはそれでよいのかもしれない。最後に笑える話をひとつ。

ラビ・ヤコブは、学生に人気のない同僚を慰めて、こう語った。「学 生が私の もとに集まるのは、彼らが来ることにこの私が驚くからだ。もし彼らが君のもとに集まらないとすれば、彼らが来ないことにおそらく君が驚いてい るからだろ う。」(p.226)

2011 年 10 月 23 日
ジョージ・スタイナー著、伊藤・磯山・大島訳「私の書かなかった本」みすず書房刊

一般に広まっている見方は、初歩の機械的な暗記の段階を越えると、 数学は特 別に才能ある者にしか伝授できないというものである。冷酷な事実は、教育のきわめて多くが、敗北者、達成したことのない者たちの手に委ねられ ているという ことである。このようにフィードバックはマイナスに働き、螺旋状に下降していく。(p.205, 「学校教育を考える」より)

自戒をこめて引用する。なお、この文章につづき数学の概念を歴史的に提示することが提案されている。しかし、ある概念について最初に書かれた論文 は稍もす ると混沌としていて、おそらく著者本人にとっても執筆した当時には全貌を理解できなかったはずである。それが真に新しいということである。もちろ ん着想の 宝庫という側面はあるはずで、研究者にとっては読む価値が大いにあるが、学習者にとって混沌としたものに直接触れることが理解を助けるとは思えな い。
引用が難しいので省略するが、同書の「妬みについて」は、主観的には創造的な仕事に従事していることになっている我々にとって痛みをともなう必読 の文章で ある。


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