98年7月に(当時私が在籍していた)北海道大学大学院理学研究科数学専攻の外部評価がありました。その際、「高校生でも分かるような研究内容紹介を」ということで書いたのがこの文章です。前半部分は大学1年生位を意識して書きました。

複素解析的トポロジー

complex analytic topology

河澄響矢


図形を調べるという人間の営み(つまり幾何学)の中で、その図形は閉 じているか?穴は何個開いているか?どのように絡み合っているか?といっ た問題は最も基本的なものといえるでしょう。これらの性質は、図形を切り 開いたり融合させたりしない限り、連続的に変形していっても変わることは ありません。図形のもつ、このような柔らかい性質を調べる学問こそがトポ ロジー(位相幾何学)であると言ってよいと思います。

トポロジーは函数を調べるときにも重要な役割を果たします。まず簡単 な微積分の問題を考えて見ます。すべての実数 x について二つの関係式

f'(x) = 1 および f(x + 1) = f(x)

をみたす函数 f(x) を求めてみましょう。答えは「解なし」つまり「存在 しない」です。実際、もしそのような函数 f があると仮定すれば x = 0 から x = 1 まで f'(x) を積分すると右側の式からは f(1) - f(0) = 0 となるはずですが、左側の式からは 1 でなければならず 0 = 1 と なってしまうからです。
数直線から 0 以上 1 以下の部分を切り取り、 0 と 1 を貼り 合わせて円周を作ってみます。右側の式をみたす函数はこの円周の上の函数 と考えることができます。「円周上では定数函数 1 の原始函数は存在しな い」ということが、いまの考察の結論です。数直線の上では連続な函数なら いつでも原始函数がとれるのに、円周の上では定数函数 1 ですら原始函数 をもたないのです。この違いはどこからくるのでしょうか?「円周には穴が あるが数直線には穴が無いためである」というのがトポロジーの立場からの 解答です。
たとえばオイラーの公式 exp (x + iy) = (exp x) (cos y + i sin y ) などご存じかもしれません。このように三角函数などの性格の 素直な函数の深い性質をしらべるには複素変数の函数と考えるとよいので す。複素変数の函数には実数変数の函数に比べて沢山の面白い性質がありま す。それだけ融通の利かない固い函数とも言えます。これを研究するのが複 素解析です。トポロジーの重要な起源の一つは、複素変数の函数の原始函数 の研究にあります。

「複素解析を積極的に使ってトポロジー固有の問題を研究したい」とい うのが私の研究の中心主題です。読者は「なぁんだ。そんなことか。当り前 じゃん。」と思われたことでしょう。100年前ならまったく当り前のこと ですし、現代の複素解析幾何学でもまっとうな研究者ならどなたでも自覚し ておられることだと思います。ところが、現在のトポロジー研究の中ではど うでしょうか?微分トポロジー、代数的トポロジー、幾何的トポロジー、シ ンプレクティック・トポロジーなどいろいろなトポロジーがあり多くの研究 者が多様かつ重要な研究を行なっています。それらにくらべて「複素解析的 トポロジー(complex analytic topology )」などという分野は存在しませ ん。今世紀のトポロジーの輝かしい歴史のかげにかくれているように見受け られます。「複素解析的トポロジー」などということを言えば常識的なトポ ロジストに鼻で笑われます。複素解析函数のような固いものが、柔らかい トポロジーと相性が良いわけがない、木に竹を継ぐようなものさ!と言う訳 です。
彼等の感想には一理も二理もあります。ド=ラム・コホモロジー論から アティヤー・シンガー指数定理にいたる抽象理論については今世紀全体に 渉って複素解析とトポロジー双方を睨んだ多くの重要な研究が行なわれてき ましたが、具体的な対象について、複素解析とトポロジーを融合させる研究 はなかなか難しいのです。4次元多様体のゲージ理論による研究は、数理物 理を媒介として複素解析幾何とトポロジーの融合を目指すものと言えるかも しれません。しかし、そこで得られている結果は高い次元での複素解析と トポロジーの融合の深さを予想させると同時に研究の難しさを示唆している ように見受けられます。

私が考えるのは、複素変数が一個しかない函数に対応するリーマン面と いう一番簡単な対象です。この場合は普通の研究者が素手でとりつける程度 には簡単になります。もちろん、個々のリーマン面の研究は前世紀以来の積 み重ねがあり、トポロジーの立場からは研究の余地が少ないのですが、リー マン面を全部あつめた(リーマン面の変形のパラメーターをすべて掻き集め た)リーマン面のモジュライ空間のトポロジーについては、重要な課題が山 積しています。これは曲面バンドルというトポロジー固有の対象を研究する ことと等価になっています。「複素解析的トポロジー」の活動するべき重要 な場所がここにあります。私は大学院修士課程在学中から今日まで一貫して このリーマン面のモジュライ空間のトポロジーを調べてきました。

まず問題になるのは、このモジュライ空間の「穴のあきかた」でしょ う。「穴」のことをコホモロジー類、それら全部をあつめたものをコホモロ ジー群またはコホモロジー環といいます。リーマン面のモジュライ空間の大 事なコホモロジー類として、森田茂之と D. マンフォードが独立に発見した 森田・マンフォード類があります。ベクトル空間についてのモジュライ空間 というべきグラスマン多様体はこれまで様々な重要な研究がなされてきまし た。これをお手本にしながら複素解析を使って研究するというのが私の戦略 です。

私のこれまでの研究業績の中心は、主に微分トポロジーにおいて研究さ れてきたゲルファント・フックス・コホモロジーを複素一変数の場合に再構 成し、それをつかってリーマン面のモジュライ空間のコホモロジー類の局所 理論を展開したことにあります。ある種のフロベニウス相互律の仮定のもと で(飾り付き)リーマン面のモジュライ空間の同変 (p, p)-コホモロジー 環が森田・マンフォード類の生成する多項式環に一致することを証明しまし た。要するに、ある自然な仮定をおくと、モジュライ空間の基本的な場所に あるコホモロジー類のうち性質の素直なものは森田・マンフォード類しかな いと言う訳です。
重要な未解決問題として「リーマン面のモジュライ空間の安定コホモロ ジー環は森田・マンフォード類で生成されるか?」というものがあります が、この結果はその問題の肯定的状況証拠を与えるものです。

ゲルファント・フックス・コホモロジーを使った研究は直線束という情 報を付け加えたリーマン面のモジュライ空間にも拡張できます。その過程で 森田・マンフォード類をねじれ係数に一般化した「一般森田・マンフォード 類」を発見しました。 E. ロイエンハのアイディアと組合せるとリーマン面 のモジュライ空間の斜交的ねじれ係数安定コホモロジー群と自明係数安定コ ホモロジー環の違いは一般森田・マンフォード類で尽きていることがわかり ます。大事な応用として、森田茂之氏との共同研究で第 (0, 3)-一般森田 ・マンフォード類が森田氏の拡大ジョンソン準同型の -6 倍になり、結果 としてリーマン面のモジュライ空間の安定コホモロジー環の「第一近似」が 非安定的にも森田・マンフォード類で生成されることが分かりました。これ も上に述べた未解決問題の強い肯定的状況証拠になっています。

一般森田・マンフォード類の一部は自由群の自己同型群においても定義 され、重要な役割を果たすようです。また、一般森田・マンフォード類を、 その複素解析的起源にさかのぼって微分形式として表示する研究を行なって います。97年11月現在、数論幾何学のアラケロフ計量との関係が見えて きましたが、まだ決定的な段階に到っていません。
修士課程在学中、私とリーマン面との最初の出会いは超楕円曲線にあり ました。研究は今日でも続いています。94年(公刊97年)には超楕円写 像類群の大きい標数の体を係数とするコホモロジーの新しい計算法を発見し ました。

以上が私の研究の目指すところとこれまでの研究の実情です。両者の落 差はまだ大きいですが、リーマン面と約10年つきあってきて、ようやくお 互いに話が通じる様になってきたように感じています。しかし、モジュライ 空間と気持ちを通じることはまだまだできません。モジュライ空間と腹を 割った話しが出来ることを目標に研究を続けていきたいと思います。そうし て初めて「複素解析的トポロジー」という専門分野が私の中で確立するのだ ろうと考えています。




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