秋入学構想への罵詈雑言のページ:
はじめに:
秋入学構想について、東京大学当局が学内の構成員に対して、パブリックコメントを募集し
ています。しかし、その投稿フォームは、狭く限られているだけでなく、強いバイアスがかかっています。このことは大学当局が学内の構成員の考えに真摯に耳
を傾ける意思をもっているのか?疑いをもたせるものです。そこで、こういう形での意見表明を行うことにしました。恐らくこの webpage
は東大数理関係者くらいしか見る人がいないと思いますが、ご覧になる方がこの問題を考える際の(ヒントというよりそれ以前の)呼び水になれば幸いです。
このページに書いていることについて河澄はオリジナリティーを主張しません。もしアイディアと呼べるようなものがあるとお考えならば、差し上げますので、
このページを refer することなしにお使い下さい。
なお、秋入学移行に反対する東大教員有志のページがありま
す。ご参考までに。(2012年
2月6日一部修正)
議論の混乱:
まず秋入学の是非を議論する前に指摘しておきたいのは、次の二つの問題が混乱して議論されているということです。
(i) 入学を春にするのか秋にするのか?
(ii) 卒業を春にするのか秋にするのか?
これらは独立に議論されるべきですし、独立に議論することは可能です。なぜなら「中間まとめ」p.26 所引の学校教育法第89条には
大学は、文部科学大臣の定めるところにより、当該大学の学生で、当該大学に
3年以上在学したものが、卒業の要件として当該大学の定める単位を優秀な成績で修得したと認める場合には、同項の規定にかかわらず、その卒業を認めること
ができる。
とあるからです。この条文によって3年半の就学による春入学秋卒業は可能になるはずです。もちろん、そのための大胆な制度整備は必要で、慎重に検討されな
ければなりません。1年生の春に東京大学に入学し、4年生の秋に東京大学を優秀な成績で短縮卒業し海外に雄飛するというのは理想的なシナリオの一つではな
いのでしょうか?(2012年1月28日)
議論の順番と国立大学の社会的責任との関係:
ギャップターム/イヤーは、本来、大学進学予定者の個々の選択に任されるべきもので、強制とは馴染みません。ギャップイヤーは、進学予定者の父兄の経済力
が充分にあるならば、現在の春入学制度のもとでも可能です。「中間まとめ」の提言はギャップタームの強制的導入です。これは議論の順番が間違っています。
「中間まとめ」で言うところの
NPO「体験活動推進機構」(仮称)および「高度グローバル人材育成大学コンソーシアム」(仮称)が、実際に活動を開始して数年を経過し、進学予定者の
50%以上がそれらを利用してギャップイヤーを体験する状況になってはじめて、秋入学への移行の是非を議論し始めることが可能になります。高校卒業後数年
間の青少年の健全育成は国立大学の社会的責任の一つです。ギャップタームの受け皿がしっかりしていない状態で、秋入学移行によるギャップタームの強制を論
じるのは、無責任な恥ずべき行動です。
(2012年1月28日)
「個性」と「体験」の崇拝:
秋入学の懇談会の中間まとめでは「新たな達成目標の下、多様な体験・個性を尊重する考え方に立って、将来の教育システムを構想することが適当。」とありま
すが、これを見て思い出すのは M. ウェーバーの「体験」「個性」批判です。
近ごろの若い人たちのあいだでは一種の偶像崇拝がはやっており、これはこん
にちあらゆる街角、あらゆる雑誌のなかに広くみいだされる。ここでいう偶像とは「個性」と「体験」のことである。(中略)さて、お集りの諸君! 学問の領
域で「個性」をもつのは、その個性ではなくて、その仕事(ザッヘ)に仕える人のみである。(ウェーバー「職業としての学問」尾高邦雄訳, 岩波文庫
p.27)
ところが、現代の人々にとって、とくに現代のヤンガー・ジェネレーションに
とって、もっとも困難なのは、この日常茶飯事に堪えることである。かの「体験」をもとめる努力も、この意味の弱さからきている。というのは、弱さとは結局
時代の宿命を正面(まとも)にみることができないことだからである。(同書 p.57)
大学は何をするところなのでしょうか? もちろん学問をするところです。私は1983年に東京大学に入学しました。その4月の入学式での当時の本間長世教
養学部長から「大学はレジャーランドではありません。」との訓示を受けたのを覚えています。(平野総長の訓示はもっと高尚な話だったと思いますが覚えてい
ません。)ギャップタームの内容として「中間まとめ」のおいて提言されているものは「大学のレジャーランド組織化」です。約30年を経た2012年に濱田
総長が東京大学のレジャーランド化を推し進めるとは!! T.
マンの「ファウストゥス博士」にも活写されていますが、「個性」と「体験」の重視のあげく、ドイツはナチズムの奈落に落ち込んでいったのでした。「個性」
と
「体験」の重視というのは国が滅びるときの典型的な症状なのかもしれません。
(2012年1月28日)
本当に議論したいのは、
(i)
社会の手厚い経済的支援(この不況と財政難のなかで誰が負担してくれるのでしょうか?)なしに、ギャップタームを導入することで、富裕層の子弟以外には著
しく不利になること。現状では、中流以下の家庭の子弟がギャップタームを有意義に過ごすのは困難です。
(ii)
父兄の負担の長期化。結果として浪人もしづらく(1浪の経済的負担は今の2浪と同じ、2浪の経済的負担は今の3浪と同じということです。)なりますし、大
学院進学も難しくなりますから、大学院進学者も大きく減少する心配があります。ところで東京
大学は完全に大学院重点化された大学だったはずです。
(iii) ギャップターム期間中に学力低下が決定的に深刻になること。
(iv) 秋入学で「ランキングが上の」大学と直接競争することで東京大学の位置が低下すること。
などですが、それらについては後日とさせてください。(2012年1月28日)
大学院進学者の減少への懸念:
父兄の負担の長期化は、大学院進学希望者を大きく減少させる心配があります。「余計に2浪したと思って修士課程に進学させて欲しい」と両親にせがんだ記憶
を持つ大学教員は少なくないと思います。秋入学の実施で、少なくとも半年、現状のままでは一年間の「強制浪人」となるわけですから、これから秋入学に移行
する大学生は、いかに理解のあるご両親でも大学院進学を認めてもらえにくくなると思います。東京大学は大学院重点化されています。東京大学の学生の半分は
大学院生だそうですから、経営への影響は深刻です。(この一点だけでも秋入学構想を撤回する理由になると思います。経営評議会は総長を止める責任がありま
す。彼らは何を考えているのでしょうか?)また、現在のように入学定員の縛りがキツい状況では、一定量の進学希望者がなければ大学院教育の質は保てませ
ん。この問題への対策として、優秀者への新たな奨学金制度を創設するから大丈夫とかいうゴマカシは効かないと思います。奨学金というのは大学が支給するお
金なのですから収支にはプラスになりません。また、現在の財政難では大学院教育の質を保証するに足るだけの学生を確保できるとも思えません。(2012年
2月1日)
大学の多様性の否定としてのギャップターム強制または東京大学の理系研究
大学としての地位の放棄:
ギャップイヤー/ギャップタームは飽くまでも個々の入学予定者の選択に任されるべき問題です。これを強制することは、多様性を最も尊重するべき総合大学の
本質を損なうものです。私は、春入学を維持した状態であれば、個々の学生の自由な選択に任されたギャップイヤー/ギャップタームを取り易くする制度変更や
支援システムの構築に反対するつもりはありません。問題は、ギャップタームの強制にあります。巷間言われる「グローバル人材」なるものは、大企業に都合の
よい事務系サラリーマンのことを
言っているとしか思えません。すくなくとも今回の秋入学構想は「高級事務系サラリーマン」の養成しか考えていないように見えます。よく言われるアメリカの
大学教育は、法曹や医師の養成を大学卒業後のロー・スクールやメディカル・スクールに委ねており、そもそも専門職の養成を考えていません。専門職、技術職
および研究職の養成は東京大学の重要な(おそらく事務系サラリーマンの養成よりずっと重要な)使命です。ギャップタームによる理系教育の破壊をはじめ、今
回の秋入学構想はこれらの使命に全く無頓着としか言えません。とくに私たち理系教員にとって切実なのは研究職養成の問題です。すくなくとも理系の研究大学
は研究者養成大学と表裏一体の関係にあります。数学はそれほどでもありませんが、優秀な大学院生やポスドクの清新で大胆な発想と教員の老練な知識・知恵の
協力が理系の研究を前進させてきました。優秀な大学院生が確保できなければ理系研究大学はおしまいです。文系出身の濱田総長は東京大学の理系研究大学とし
ての地位を放棄したいのでしょうか?(2012年2月3日, 6日一部修正)
秋入学による教養教育の長期化に本郷は耐えられるのか?:
この数年、専門教育の前倒しのために、本郷の幾つかの学部は、2年後期の授業の一部を本郷に移す試みをしています。私が学生の頃も分野によっては、他大学
に較べて1年半の遅れを取り戻すのが大変だといってた理科一類の知り合いもいました。私は教養学部のあるべき姿から言って、それは受忍すべき問題で、本郷
に授業を移すことには大いに疑問を感じています。しかし、いずれにせよ、秋入学の実施は、専門教育のさらなる遅延を含意します。本郷の先生方はそれに耐え
られるのでしょうか? またそのことに、どこまで気付いているのでしょうか? 興味のあるところです。(2012年
2月7日)
新聞報道を読んで一言:
ある新聞は秋入学について「社会を覆う閉塞感を打破し、将来への展望を切り開く“起爆剤”としての期待が高まる。」と言っています。生身の学生たちの人生
を「起爆剤」に使うということなんですね? 吐き気がします。(2012年
2月20日)
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